まだロックが好き

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まだロックが好き

アラサーです。 ふだんはサラリーマンをしています。 元バンドマンです。 高校から一緒の妻と、2014年に生まれた息子がいます。 趣味でまだバンドをやったりしてます。 まだロックが好きです。 そんな日記です。ブログではありません。 日記です。

2歳男児がおすすめする「Blippi」というアメリカン教育動画

育児

 

私はいまだいたい2歳である。

なので表題である「2歳男児」はまちがいではない。「2歳男児」ではない。生粋の日本人なので助詞にはびんかんだ。

さて、聡明な父と健美な母のもとに産まれた私。ふだんは保育施設にかよっている。平均的な2歳児よりもすこし質量体積ともに大きい。ありがたいことに優良な食生活を送っている。

そんな私がいま熱狂のまなざしを注いでいる動画がある。そいつが表題の「Blippi」である。魅力を語りたい。

 

 

 

Blippiとは

 

どうやら米国の動画であると察せられる。発語される言語は父母のそれとは違うからである。

私は「えいごであそぼ」という日本放送協会が運営しているテレビプログラムも拝見するので、この言語がアメリカ合衆国のものであるとわかる。経験とは知識である。ちなみに日本語はいまだ、ままならない。

「Blippiとは」なんて仰々しくも書いてみたが、じっさいのところ何がブリッピーなのかわかっていない。父母もそのようだ。きっとこのコンテンツをブリッピーと呼ぶのだと仮定している。

 

陽気なおじさん

 

空色とオレンジ色のコントラストが鮮やかなキノコ帽子。同オレンジの眼鏡。同オレンジのサスペンダー。同色の蝶ネクタイ。そして同空色のボタンダウンシャツ。

という2トーンカラーの衣装を被着した齢30~40くらいであろう顎鬚、頬髭、マスタッシュをたくわえた男性が登場する。こいつが最高にイカしている。ほんとクールでホットでちょうどいい。

 

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画像転載元:https://blippi.com

 

狂乱のアニメーション動画

この紳士がアニメーション動画にあわせとにかく歌い踊り、舞う。というのがメインコンテンツである。

本来の趣旨は、その乱舞浪曲を通して、数字、色彩、言語の教育をほどこすものであるようだ。

しかし、私はまだ2歳のちびっこ。ケツの青い人間。まさに青二才である。そんな教育なんぞどうでもよい。ただこの紳士と浪曲に興をいだいているのである。

 

YouTubeで見られる

 

私はブリッピーにアマゾンプライムビデオというコンテンツを介して出会った。

なのでアマゾンプライムビデオ限定か、とおもいきや、どうやらユーチューブにも動画が散在しているようであった。ってかユーチューブのほうがたくさんある。

公式のものなのでリンクを貼っておくことにする。

のりもののうたがとにかく最高


Trains for Children | Fun Train Song by Blippi

 

チュッチューwwwフォーッ!!!もうサイコーである!!私はこれがいちばんお気に入りである!!!たまんないのである!!!…なんなんだこの魔力。チュッチューwww

 


The Garbage Truck Song by Blippi | Songs for Kids

米国でも、幼児にゴミ収集車が人気なのは変わらない。そんな国際情勢も学べる。

また簡易な英語を使用しているので、義務教育程度の英語力でもことばが認識できるのはとてもよい。歌はそんなにうまくない。

 

 こんな大人になりたい


Educational Toy Videos for Children with Blippi – 4K Toy Store and More!

 

トイザラスであろうか。そんな場所で童心にかえる陽気なおっさん。むつかしいことばで自分をとりつくろう大人たちが散在するが、そんな大人、クソだ。私はこうなりたい。

 

英語圏での教育動画

 

英語圏で、英語でなにかを学ぶ動画であるようだ。つまり英語が母国語、といのが前提のムービーである。

しかし前述のとおり、簡易な英語を使用しているので比較的わかりやすく、異国語の習得、つまり戦後GHQの下で第二言語を米国語として定められたここ日本においては原初的な英語との折衝を果たすのでは?とおもんぱかっている。

以下のサイトが運営サイトとなっている。気になるかたはチェックしてみてほしい。原文は英語であるがグーグル翻訳など利用してくれれば良いと思う。

https://blippi.com/

 

2歳児における動画視聴の影響

 

よく「こどもを動画漬けにするなんて言語道断」なんておっしゃる教育評論家の方がおられるが、まことにもって理論ばか。時代遅れのあたまでっかち。平成ですよ、みなさん。

そういうやつに限って「現在1児の母、育児に家事に奮闘中」なんてキャッチコピー。まず1児の時点でソースが足りなさ過ぎる。せめて5人は育ててから言え。そして評論家の肩書きは、全員こころやさしい人間に育てあげてから口上しろ。

私は思う。ほったらかしにしなければ、一緒に時をすごせば、動画視聴だって立派なコミュニケーションである、と。

たしかに子守を動画にまかせてしまうことは、親業をしていると、ある。

我が家の父母もそんなときがある。それは仕方ないと思う。しかし、そんなに張り詰めた空気で私を見られてもお互い疲れるだけであろう。

動画はいろいろ学べる時間でもある。うまく使い方を考えてほしい。それが親業であろう。

 

まとめである

 

ああだ、こうだと申し上げてきたが、私はまだだいたい2歳のひよっこ。保育園はあひる組。間に受けないでほしい部分もあるが、ブリッピーがおすすめなのはほんとう。まじ。

今日も今日とてブリッピーを見ようかとおもう。ひまそうな父でもさそってみようか。あいつ誘うとばかみたいに喜ぶからな。そうしよう。

 

ハードコンタクトを10年使用している私の愚痴

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い

  

eye

 

「コンタクト、ハードにしようと思っているんだよね。目にいいらしいしさ」

という思いつきの発言に、私は、憤りを感じた。あほたれ。ハードをなめるな。

なにを血迷ってハードコンタクトなんかにしようとしているのか。勘か。こんなもん良いところなんていっこもない。めんどくさいし、痛いだけだ。やめておけ。

私はワケあってハードコンタクトを使用している。ちなみにソフトも使ったことがある。そんなわたしがデメリットだけ書いていく。

 

 

装着時

 

いちばんきになるのは装着時のことだとおもうので最初に書いてやる。偉そうな発言だが、私はいま怒っているのだ。まじ。

 

なんか入っている感

「なんか入ってる感」て自分で入れたくせに無責任な発言ですね。とにかく眼球への異物感がすごい。

最初は痛い、というのもあるが、なによりゴロゴロチクチクするかんじはすごい。なんで入ってきた!?って思う。入れたのは自分だが。

ソフトコンタクトというのはサランラップみたいに眼球に貼り付けるので、あまりズレることもないと思うが、ハードコンタクトは落し蓋みたいに乗っかっているだけなのでまばたきするだけでちょろちょろ動く。

まばたきだけでコンタクトががっつりズレることは稀だが、この挙動に慣れないと不安であると思う。異物感がすごい。

 

ズレる

やはり上記の「落し蓋」の理由により、ズレやすい。というかズレる。ハードコンタクトもレンズの大きさや形状を、その目に合わせて選択できるが、それでもやはりソフトレンズよりぜんぜんズレる。

そいでズレるときに目が乾いていたらもう最悪。吸盤みたいに白目にはりつく。きゅーって吸い付く。あんなにズレていたレンズがびくともしない。真空状態になっている。ちゃんと酸素透過してんのかよ。

そんなときは白目に爪を立てて無理やりひっぺがす。これが痛い。つらい。

 

いつも不安

 

だから鏡をいつも持ち歩いている。「誰か鏡もってない?」の発言に誰よりもはやく対応できる。「あ、おれもってるよ」。女子か。

「なんで鏡常備してんの?」ってつっこんでくれれば救われるが、なにも指摘されずスルーされるのがいちばんキツイ。たぶん私は「要所要所で鏡を確認する自己愛のつよい人間」だと思われている。ちがうんだ、ちがうんだよ。わけを聞いてくれ。コンタクトなんだよ。ハードの。

心なんて一生不安さ、と誰かが歌っていたが、ハードコンタクトでもうひとつ不安が増える。やめてほしい。

 

恐怖との共存

失う恐怖。1万円以上するんだからね。身に着けているもので一番高価なのは結婚指輪だが、その次はおそらくコンタクト。失くすのめっちゃこわくてはげしい運動とかできない。

破損する恐怖。目になにか堅いものがぶつかったら割れる。これはこわい。幸いにもまだ目の中で割れたことはないが、洗浄中に割れたことはある。

これが目の中で割れたら…と考えるだけでぞっとする。こわい。やだ。

 

目にゴミが入ってきたとき

磔、八つ裂き、市中引き回し、ハードコンタクト装着眼球へのゴミ挿入、火あぶり。

この列にならんでも違和感がないほどの拷問。めちゃくちゃイタイ。「いっそ殺してくれ!」と思う。「トドメを派手にくれ!」とおもう。

ゴミが入ったとき、ソフトコンタクトだとゴミに気がつかず眼球にキズがつく。なんて虚言。それはしっかり自分の目で確認したのか。

ソフトだとゴミが入ったとき、知らず知らずにキズがつくらしいが、この痛みを体験すればハードのほうがめちゃくちゃキズついてる感じする。体感する。感じることだけがすべて。感じたことがすべて。

 

お手入れ

ソフトコンタクトて使い捨てとか、1週間のものとかで、多少乱暴につかっても次がある。予備がある。未来がある。

しかしハードコンタクトは使い捨てにできない。過去の自分をだいじにしなきゃなんない。つまり毎日のお手入れがめんどくさい。

それを記載していきたい。

 

洗浄

 

基本的に洗浄液につけて保存する。

装着する前に水で洗浄液を洗い流し装着。帰って取除するときに洗浄液で洗浄。指のはらをつかってやさしくていねいに。これがけっこうめんどうで。流れちゃう可能性があるから排水溝とじなきゃなんないし。これ1万円以上するし。気を使う。ストレス。

 

たんぱく質の除去

 

たまにたんぱく除去なんてのもしないとなんない。よくわからないけどコンタクトレンズにたんぱく質が付着する。

これをしないと目の前が常に真っ白になる。曇っている。付け置きするだけなんだけど、ソフトなら必要ない過程だし、なんでおればっかりこんなことしなきゃならんのだ、と思う。カルマが強すぎる。

アクティバタブレット 10錠

アクティバタブレット 10錠

 

私がハードコンタクトをつける理由

 

愚痴ばかりで、じゃあソフトかメガネにすればいいじゃない。とお思いでしょうが、私は円錐角膜という奇病を有しておりますゆえ、ハードコンタクトでないと視力があがらないのです。ちなみに左目がそれです。

円錐角膜っていうのは角膜のレンズ部分が尖ってしまってレンズとして機能しない。かんたんにいえばそんなところ。長くなるので割愛します。

そもそもコンタクトっていうのは、この円錐角膜の視力をもどすために開発されたものなんですね。ちなみに日本で開発されたらしいです。アンビリバボーか世界仰天ニュースで見た気がします。

だから仕方なくハードコンタクトをつけているのです。メガネだと左目の視力はほぼないです。だから日常メガネのときは、左目閉じてます。カカシ先生みたくなってます。へんな人だと思われてます。

 

総括

 

人間は生活をよりよくしようと進化をつづける。コンタクトもそうで、ハードのわずらわしさを除去したものがソフトコンタクト。なのでソフトで視力が矯正できるならソフトのままでよいではないか。なんとなくで選ぶな。後悔するぞ。

私からしたら贅沢な選択に見える。ずるい。うらやましい。ってかメガネで見えるならメガネでいいじゃん。なぜコンタクトにするのか。君の素顔にそんなに魅力はない。

 

といったところです。人体的にハードのほうが目にいい、ってよく聞きますけど、たぶんほんとうなんでしょうけど、ぶっちゃけめんどいです。ってか不安やら恐怖やらがデカくてできることならソフトにしたい。

ってかメガネでいいんです。わたしは。素顔にそんな魅力がないので。

 

カフェ恐怖症

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い

 

Cafe.

 

カフェが落ち着かない。

いくつになっても定職につかずぷらぷらぷらぷら。まわりの友人知人はみんな結婚し、こどもも出来て、土地を購入、家屋の建築にまで至っているってのに、きまった収入も無く、その日暮らしの風来坊「カフェ」という意味でなく、カフェというものに私はとても緊張する、という意味で。

 

まずもって、私はおしゃれな人間ではない。カフェとはおしゃれなものだ。その部分でおたがい相違を感じている。サッカー部と卓球部の仲良しふたり組みがあまりいないように存在ジャンルがちがう。不仲というわけではない。私とカフェはジャンルがちがうだけなんだ。

 

しかし、たがいに助け合うこともしばしばある。じっさい私はカフェに助けられているし、カフェにて私が経済的消費をおこなうことでカフェも多少の利益を得ている。

かくいう私はこうしてカフェにて日記を綴ることが多い。業務にて時間調整などを施すためである。時間調整とはサボりもあるけど、アポイントメントの時間におけるキルタイムだと察して欲しい。

 

カフェの客層も私のおちつかない理由のひとつ。

マックブックという株式会社アップルのラップトップコンピューターを開示起動し、にやけ顔をすることが一種の社会的ステイタスとなっているらしい。それはどうでもいい。どうでもいいんだが、その人の「常にアクティブモード」というのが気になる。

これはさまざまなカフェの客にたいして思うことなんだけれども。つまり雑談、商談をしているデュオやトリオ、カルテットが気になる。ソロがいたらそいつがいちばん気になるが。

静かに読書をしているだけの紳士も気になる。スマホをスクロールしまくる美女も気になる。気になるきになるキニナル鬼煮奈瑠。

 

なぜだろう。と思慮。たぶん私だけがヒマな存在であると感じてしまうから。私だけが虚無。私だけがぼけっとしている。私だけがいまこの瞬間、生きている理由がない。サボっている。生きることへのサボタージュ。やばい。まずい。見える、死。

 

しかし本来、いや元来。カフェとは、コーヒーを嗜むべき場所であって静謐な空間。落ち着いてコーヒーと空間をたのしむべき場所であり、アクティブな活動に精を出す土地ではないのでは。カフェは「なにかを行うために来る場所」ではないのでは。という逆襲の思念。

 

つまり、今現在、コーヒーとこの空間だけにフォーカスを当てているのは私だけ。カフェをもっともカフェたらしめているのは、虚脱しきった私だけであり、パソコンでカタカタしたり、猥談をしたり、読書をしたり、スマホをいじいじしたりする「ながらカフェ」、もっといえば「ついでカフェ」をしている彼らよりも、正式なカフェをしているのは私。

 

なんだ。おれはここにいていいんだ。カフェがカフェでいられるのはおれがいるからなんだ。卓球部が垢抜けないように感じるのは、垢抜けまくったサッカー部がいるから。そんな支えあうふたり。尊ぶふたり。私とカフェは「人」という漢字のようなニコイチの存在。

 

といいつつ日記を書いている。つまり、めちゃくちゃスマホをフリックしている。あぁ私もやはり彼奴らとおなじ。同穴のたぬき。それはカフェに対する狼藉。カフェに対する冒涜。カフェに対する裏切り。

 

今日もこうしてサボっている。ブレンドのホットをヤサイアブラニンニクマシマシで。

 

歌が上手くなりたければ腹筋よりもカラオケで録音しろ説

ブログカンケイ

 

mic


人間の耳には内耳外耳という部位がある。

内耳というのは読んで字のごとく耳の内側にある部位。外耳というのはこの世界の空気振動をキャッチするために外側に付属している部位。中耳ってものあるけど無視します。めんどいので。

 

自分の声を録音したものを聞くと「きもちわるい」ってなるのは、内耳と外耳のイメージの差異があるからである。つまり自分の声はふだん内耳で聞いている。それを前提としつつ、我声を録音媒体を介して外耳で聞いたときの脳内の想像と現実のギャップによる違和感、これが原因である。

 

よく歌が上手くなる方法として、腹式呼吸をマスターする、なんてのが情報として横溢している。腹筋しろ!なんてね。なんと浅ましく体育会系。部活か。それは後手でよろしい。

ほんとうに歌が上手くなりたいのであれば、とにかく録音。そして内耳と外耳の感覚をちかづける。これが最初にやるべきことです。

 

なんだかモノマネうまい人っているじゃないすか。急にできちゃうヤツ。あの人たちは先天的に内耳と外耳の感覚が近い人なんすよ。だからそういう人は歌もうまい。くやしい。

 

そいで、自分の声がどんなもんか、というイメージを作る。それにあった曲を選ぶのが歌が上手くなる秘訣です。なぜならば声質により、合う曲と合わない曲があるからです。ビーズの曲をスピッツが歌ってしっくりきますかね。聴いてはみたいですが。

 

そんなマジなことを500文字ちかくも書いてしまった。まぁ私は声訓練、通称ボイストレーニングなんてのに通ったわけではないのですけどね。経験から会得した方法です。ちなみに私は、ぶっちゃけ歌がめちゃくちゃうまいです。うそです。そこそこです。でも歌声は100万ドルです。これもうそですが上記の録音論はほんとう。まじ。

 

たまにバンドセッションなんてのをやっていると、ボーカル、発声、叫び、の役割をいただくことがある。私はほんとうはギターが弾きたいのだが、まわりのボーカルが下手糞すぎて私がマイクの前に立つ。私のギターが下手糞なわけではない。そう思いたい。まじ。

 

内耳と外耳の関係を知っているので、セッション前にはかならずカラオケなどに赴き、いっぱつ歌唱してみる。印象をたしかめたいからだ。私がこの曲を歌うとどうなるのか。どう歌えばいい感じに聴こえるのか、などの研究をする。

イケるなってヤツは二、三回歌って終わりだが、こりゃ合わないなってヤツは時間が許す限り歌う。

比較的まじめなエピソードであるが、まったくもってロックじゃないので誰にも言っていない。だからこれは私と君だけの秘密にしてほしい。

 

なので、私の中でカラオケというのは、娯楽施設というよりは練習場所である。わたしのアイフォーンのボイスメモには録音の軌跡が刻まれている。写真、ガレージバンド(という音楽作成アプリ)、ミュージックの次にボイスメモのデータ容量が多い。3ギガしかはいってなかったがドラクエ7よりデカイ。

 

録音内容をたまに聴く。歌が練習できないときは、録音した歌を聴くと内耳と外耳のイメトレになるからだ。ははは、まじめだ。しかし、もう歌なんて歌わない。壮絶すぎて相席したボーカルのこころを折ってしまうからだ。私の声は罪だ。

 

なので、カラオケ。これは困る。とくに歌いたい歌もない。十八番なんてない。意思がない。自分をもっていない。さまよう流浪の民。自分をさがしたい。インドあたりにあるかもしれない。

 

しかし、なんだかんだでミスチルの「終わりなき旅」「エヴリシングイッツユー」「トゥモローネバーノウズ」はちゃっかり毎回歌っている。

ミスチルはぜんぜんファンじゃない。音楽的にすげぇとおもうことはあるが。たぶん私の声は桜井みたいに粘っこく、「にゃみにゃみ」しているのでイメージがちかい。だから歌っているんだと思う。ちなみに難しい。ミスチルはなめないほうが良い。ほんとうはエレカシになりたい。まじ。

 

今週のお題「カラオケの十八番」

【Nintendo】お前らゲームしてる時間なんてあるのかよ【Switch】

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い

 

三十路の社会人男性が子育て奮闘記を記載するブログである、この日記。2歳男性職業遊び人を有する我が家はまいにちがハッピーであるが、しかしむちゃくちゃ大変である。

 

そんななか世の中は浮かれている。阿呆のように踊り狂っている。何故ならば、かかる平成二十九年酉年三月三日、次世代ゲームハード機、ニンテンドースイッチなるメカがリリースされたからである。

 

私もツイッターやブログやまとめサイトやユーチューブなどで、いわゆる「開封の儀」なるものを拝見してきた。それを見て飽き飽きしました。コミックス「クレヨンしんちゃん」5巻のセリフを借りるならば、うんこまみれのザリガニ。略してうんざりですね。

 

まだまだソフトが充実しておらず、今後の展開が期待されるこのニンテンドースイッチであるが、私は叫びたい。そんなもんやってる時間ねぇよ。と。

 

私は社会人である。ゆえに毎日の労働に精を出し、心を痛めたりもするけれど、米をかっ喰らっては農家の皆様に感謝、お米の神様に感謝、排泄するさいは水神様に感謝、この先進国に生まれ落ち、飢饉や紛争に見舞われないことに感謝、夜眠るさいはこのブログを読んでくれている皆様に感謝しなければならない。そんな私に仮想世界で剣をふるっている時間など皆無である。

 

そんなわたしを尻目に、君たちはゲームなんぞに興じる。まったくもって不届き千万。遊び人どもめ、もっと世の中の人のためになる課外活動に行きなさい。ゲームばかりして引きこもってないで、外に出なさい。

 

しかし、私がここで糾弾したところで世の中は変わらない。変わらないのだ。

ニンテンドースイッチは売れに売れ、企業組織任天堂の株価は上昇の一途をたどり、日本経済は発展。世の中の血流であるカネが循環し、好景気までとは行かないものの、日本は沸き立つ。かつてのゲーム大国という名誉を取り戻せるかもしれない。

またゲームをすることにより、日頃のストレスを溜め込んだ人々はそれらを発散。かつてビートルズがエドサリバンショーに出演したさい、アメリカ合衆国の青少年犯罪が減少したのと同様に、悲しい事件は減るのである。あれ?話が切り替わっている。

 

そう、このニンテンドースイッチ。醍醐味はその「切り替え」である。

テレビジョンに接続すれば大画面でゲームを楽むことができるし、液晶画面を有する小型端末として、どこでもかしこでも仮想世界を楽しむことができる。

しかも、ジョイコンなるコントローラーは端末の両サイドにあるが、なんと取り外し、ひとつのコントローラーであったものが、ふたつのコントローラーとして切り換えが可能。ニンテンドーの「ゲームをみんなで」という遊戯としてのバーチャル機器を押し出す姿勢が美しい逸品である。これで野外でバーベキューなんかしながらみんなでゲームできますね。

 

また、大画面でテレビでプレイ中、しかし、急を要する事態に陥ったとき、その端末を持ち出すことでゲームはつづきからプレイ可能。まさにこれは多忙な社会人にとって、ファミコン、ゲームボーイ、スーパーファミコンと、ゲームと共に青春を歩いてきた我々ポケモン世代にとって、あたらしいゲームとの共存の仕方を示されているのではなかろうか。ゲームの価値をスイッチする。それがニンテンドースイッチ。時間がない社会人にこそ、おすすめですね。

 

遊び人になりたいなぁ。

 

Nintendo Switch Joy-Con (L) / (R) グレー

Nintendo Switch Joy-Con (L) / (R) グレー

 

 

 

探究心について

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い 日記

 

私は音楽にかんしては登山家タイプだ。なにを言っているのか。探究心の話である。ワンダーフォーゲルの話ではない。思ったので書き留めたい。

 

日曜日。ふと、さいきんの音楽を聴いてみよう、と思い立ち、アップルミュージックをスクロールしていた。「新着ミュージック」みたいな項目があったのでそこをタップ。ははは、最新の情報が指先ひとつで入手できる。いい時代になりましたね。って情報閲覧。わお。聴きたいものが、いっこもない。

 

見知らぬものはすべて排除だ、といわんばかりのオッサン的思想に自分がきらいになりそうだったので、無理やり適当な音楽を選びました。項目は「オルタナティブ」というラテ欄から。なぜならオルタナは好きだから。アリス・ジェミマ。イギリスの女性作詞作曲自演一匹オオカミ。なぜ素直に女性ソロシンガーソングライターといわないのか。

Alice Jemima

Alice Jemima

 

 

デジタルであるが素朴。アッセンブリーであるが煩雑でない。貧弱でないシンプル。無機質な仮想音源に有機的なウィスパーな声。メロディはリフレインが多いが存立している。深夜の高速で流れるテールランプを見つめながら聴きたいタイプ。ふふふ、よかったです。

 

しかしなぜかどこかで聴いたことあるような感覚。まぁそれが「なにか」わからないのですが。流行の音楽なんでしょうか。得るものはあまりなかったです。

こうしてけっきょくジェフベックのアルバムを聴き、関連項目を採掘、出会ったのがマリア・マルダー。1970年代の「真夜中のオアシス」という曲。ギターが鬼神であった。これどうやって弾いてんだって、調べるとエイモス・ギャレット。ポールバターフィールドのギタリストですね。

オールド・タイム・レイディ

オールド・タイム・レイディ

  • アーティスト: マリア・マルダー
  • 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2015/11/11
  • メディア: CD
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世間的に新しくても、自分のなかで量産的で既製品なものがある。しかし時代的に古くても、自分のなかで新鮮で真新しいものがある。私は後者の、古いものをよく聴き、それを寵愛するタイプ。

 

現在、さまざまな音楽がちまたに溢れている。私はそれを海のように思う。表層的に寄せては消えるさざ波のような音楽もあれば、時代におおきなキズを残すようなでっかい津波のような音楽もある。それはどこから来るのかっていうと海域や海流、まぁジャンルですね。そこからやってくる。

 

いろんな海でいろんな音楽が生まれている。深海というのは宇宙と同じくらい不明確な部分が多い、と聞く。あたらしいものもぽこぽこ生まれている。いろんな派生ジャンルもある。

 

そこに潜って探索する人。あたらしい発見をこころみようとする人は探究心という意味でダイバータイプだと思っている。アンテナの感度が良く、時代の潮流にびんかんで、その感性を羨ましくおもう。まじで。

 

私は冒頭で申し上げた通り、そういったタイプでなく、登山家タイプ。つまり、海に流れ込む源流を探しに河川をなぞり歩き、山岳に迷い込むタイプ。

現在、さまざまな音楽が林立するのは源流となるものがあるからでは、と思い、好きな楽隊の好きなものなどを追っていたり、やはりロックの起源はブルースだろう、などと勝手に決め打ちをして、ひたすら古いブルースを聴いたりするタイプなのです。言うなれば鮭。時代を遡っていくのです。登山どこにいった。

 

好きな楽団の聴いてきたものを聴く、って人は多いかと思います。しかし、それじゃあつまらないっつって新しい音楽も聴きたいですよね。ようはバランスが大事だと思いますが、私はなかなか新しいものを手に取る勇気がなく、やはりなんだかんだでポールマッカートニーのベストなんかを聴いたりしちゃうのです。ちなみにジョージ派です。

 

これは音楽だけでなく、いろんなものごとに言える気がする。

現世の海で新しいものを探しに行くか、または、歴史を辿りその源流を探しに行くか。それを言うなれば、ダイバータイプと登山家タイプに分けられるのでは、なんて思った日曜日の絶望的夕暮れ。

 

時間は有限で、どっちもうまくやるってのは、社会的畜生である私にはちと難易度が高い。しかし、やはりブログなどの情報発信は、かくじつに前者のダイバータイプが向いていると思いますね。さて、あなたは海派?それとも山派?なんちって。

 

ピアノは鍵盤楽器ではありません

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い 日記

 

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「ピアノは鍵盤楽器じゃない」と主張している。だいたい、はぁ?と言われる。ばかだと思われているかもしれない。でも仕方がない。男の信念はかんたんにゆるがない。

 

私は「ピアノは打楽器」と言う人間が好き。その演奏方法も含めて。さいきんスタイルカウンシルを聴いていて思った。ミックタルボットのウィキペディアを作って欲しい。

 

ピアノは、鍵盤をぽんと弾くことにより、内部構造のハンマーが張り巡らされたピアノ線を打叩、発音する。つまり打楽器であり、弦楽器。打弦楽器というのが正しい。

 

鍵盤というのはつまり手段。操作パネルであり、コントローラ。ピアノを鍵盤楽器というならば、バイオリンは弓楽器というのか。ギターはピック楽器というのか。ドラムは棒楽器というのか。

 

世の中に浸透しているモノの名称が気になる病気をもっている。ずっと気になっているのは「原付」という名称。

 

原動力付自転車を原付という。その認識はある。ちゃんとホンダカブとかスクーターが思い起こされる。人間社会を30年間生きている。ダパンプとかブイシックスとか見て育った。

 

まず、原動力というばくぜんとした表現が気に入らない。ここに主たる意味がない。なにが原動力?と思う。電気なのか。核なのか。水素なのか。友情なのか。仁義なのか。勇気なのか。愛なのか。それとも、神なのか。

 

そして原付。原動力が付属している、という意味だろうが、なにに?と思ってしまう。略すならばせめて主語をすこしだけでも。と思う。

 

電車、つまり電気力作動列車だってきちんと主語がある。列車の「車」が残っている。だからあれはわかるが、原付。なにに?なにに原が付いてるの?って思う。純粋すぎるのか、おれは。

 

原チャリという言い方であれば許せる。原動力付きチャリンコ。まぁそれは寛容になれるのだけれど、あら不思議。じゃあチャリってなに?ってなってしまう。チャリ。チャリンコ。自転車だという認識はある。でも、ここでもちょっとまて。と思う。

 

自転車をチャリンコ、略してチャリという。しかしじっさいチャリチャリ鳴っているのは付属の警鐘、つまりベルであり、自転車は漕ぐとシャコシャコ鳴るものである。だからシャコリンコと形容すべきでないのか。リンコどこからでてきた。

 

なので原動力付き自転車は、原シャコと言うべきでないのか。原チャリというのは石油燃料で鳴らす鐘のことではないのか。しかし、なぜあんなちいさなものわざわざ石油燃料で打ち鳴らすのか。

 

しかしけっきょく、原付や原チャリという表現が浸透している。だから仕方なく原付なんていう表現をつかう。ここで怒りの矛先は自転車の威厳のなさ、に向けられる。

 

自転車がもっと主張をしていれば「原付」なんて主語のないことばが横行することもなかっただろうし、その形容をあんなちいさなベルに奪われることもなかっただろう。

 

男ならもっと信念を持つべきである。ばかにされようと、自分を出すべきだ。私のように。主張をまげるな。心に旗をかざせ。まぁ自転車が男なのかはわかりませんが。