まだロックが好き

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まだロックが好き

アラサーです。 ふだんはサラリーマンをしています。 元バンドマンです。 高校から一緒の妻と、2014年に生まれた息子がいます。 趣味でまだバンドをやったりしてます。 まだロックが好きです。 そんな日記です。ブログではありません。 日記です。

三井のリパークの「リパーク」についての誤解

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い 日記

 

私の通勤路に三井のリパークという駐車場がある。コインパーキングである。

パークの意味は知っている。車のギアにも「P」というものがあり、その正体はなにを隠そうParkの頭文字Pであって、つまり駐車するという意味である。

それはいつのまにか名詞化してしまい、駐車場の意味になり○○パークや△△パーキングなんて具合に駐車場のネーミングとして利用されている。

 

しかしリパークとはどういう意味なのだろうか。と思ったのです。聞きなれない単語だな、と。

でも、たぶんreparkなのだろう。接頭語の「re」+前述の「park」でリパーク。この「re」が示すのはリサイクルの「リ」であり、なじみある表意文字で意味をあらわすのであれば「再」である。

以上のことから察するにリパークとは「再駐車する」という意味なのか。

いや、しかし。それはたんに駐車がへたなだけではないのだろうか。駐車したときにずいぶんななめになってしまって「やりなおし。リパーク。」とでも言うのだろうか。

それとも、とても狭い駐車スペースなので何度もきりかえして駐車しなければならない駐車場だから「切りかえし必須!」という意味でリパークと書いているのだろうか。まぁどちらにしてもユーザーに失礼な駐車場である。

企業としてそんな失礼なネーミングをつける訳にはいかないと思う。なので私は上記の意味ではないと思う。以下2点ほど代替案を考えてみた。

 

まず一つは「三井ノリ パーク」という意味である。つまりこれはノリノリのノリ、音楽的に言えばグルーブである。

グルーブとはノリある。縦ノリ横ノリ、いろいろあるうちの三井ノリである。しかし果たして三井ノリとはなんなんだ。なんか緑っぽい?ってな具合か?これはちょっと無理がある。自分で考えといてかなしいが、早速却下である。

 

もうひとつは人名パターンである。こちらは有力である。

現世の日本にはたくさんのパーキングがある。それはおもに八代パーキングだとか、GSパークだとか、野本駐車場とか名前や地名が入るのである。これは統計として日本に住むものの認識になっているはずだ。

 

これを三井のリパークにあてはめる。つまり「三井のり」パークである。これは真意をついた思っている。

よってまず私は自分を恥じたい。ステレオタイプにやられていた自分に喝を入れたい。私は勝手に「三井の」「リパーク」だとおもっていたわけである。

しかし、ひらがなの「り」とカタカナの「リ」はフォントによっては一緒であり、この三井のリパークの「リ」がひらがなであることを疑わなかったのだ。まるでそれは春の次にくるのは夏であるように。お天道様は東から昇るように。まじめに生きていれば私はきっといつか幸せになれる、と思っているように。

 

つまり三井のりさんは地主であったのだ。全国にたくさんの土地を持っていた。しかし、もっているだけでは税金がかかる。もっているものは運用せねばならない。という具合に三井のりさんが創業者として始めた駐車場業務ということである。

しかし果たして三井のりさんは駐車場を経営したかったのだろうか。自分の名を冠したのだからもっと誇らしい場所を作りたかったんじゃないだろうか。そこでこのパークの本来の意味を考えてみる。パークのもともとの意味は「公園」である。

三井のりさんは本当は公園が作りたかった。

これだけの大地主である。コンクリートを敷き詰められるまえ、ここは田畑であった。だから農業に従事した。そして三井のりさんは家族をかえりみず懸命に働いたのである。そんな親の背中を見て育った三井のりさんの子どもたちは親の愛に飢えていた。親は仕事ばかりで、ぼくたちわたしたちのことをおざなりにしている。かなしい。

いやちがうんだ、こどもたちよ。三井のりさんの心にはいつでも子どもたちの笑顔があった。その笑顔を守るために懸命に働いたのである。

これは矛盾である。こどもたちへの愛ゆえにこどもたちをないがしろにしてしまう。悲劇である。三井のりさんのこどもたちはいつも家の中で遊んでいた。小さな世界に生きていたのだ。

そんな罪の意識からか、晩年、三井のりさんはこどもたちが世界と関わりをもてるような場所を作ろう、そう思った。そこに行けばいつも誰かがいる。さみしくなんかない。そんな公共の場を作ろう。こどもたちの笑顔が溢れる公園を作ろう!そう思って三井のり公園を画策したのであった。

しかしこれに異を唱えるものがあった。まさにその三井のりさんの子どもである。

こんなに広大な土地を一銭にもならない公園にしてたまるか。しかもなんだよ公園って。あほか。俺らはおまえの愛情なんて受けなかったのに、なんで赤の他人なんかにやらなきゃならんのだ。とにかく俺らは苦労なんてしたくない。不労所得が欲しいんだ。カネカネカネカネ。ずいぶんと鬱屈したこどもたちになってしまった。

しかし譲らないのは三井のりさんである。絶対に公園にする。そんな遺書をも書いた。すれ違う家族である。一計を謀したのは長男の三井銭介である。

「わかった、俺らが折れよう。あの土地は公園にするよ。だがしかし三井のり公園ってのはモダンじゃない。ここはひとつ三井のりパークって感じにしよう。」

ここから話はとんとん拍子であった。三井のりさんは三井のり第一パークが完成するまえにこの世を旅立った。その本当の姿を知ることもなく。

 

そんなことを思ったのですが、本当のところはどうなんでしょう。三井のリパーク。さいきんこんな日記が多いですが、いっこうに企業からの連絡は来ません。

三井のリパーク関係者のかたがいらっしゃったら本当のことを教えてください。ご連絡お待ちしています。

竹原ピストル「PEACE OUT」を聴いてやっぱ天才だなと驚嘆した

音楽 ニッポン

 

たまに、ごくたまに。現代ふうガチャ的に言えばSSR。ダブルスーパーレア級にであるが、呼吸が苦しくなるほど切実な切迫する、つまり幕之内一歩のリバーブローを食らったかのごとき呼吸困難に陥ってしまうような歌を歌う人がいる。

その一人に私は竹原ピストルという人を挙げたい。

 

竹原ピストルとは、もともと野狐禅という楽隊を組んでいた人である。野狐禅ってすげぇバンド名だと思う。ハイパーセンス。嫉妬。いまはそれを解散され単独行動で歌手活動をされている。詳しくは私が書くよりウィキペディアでも見たほうが早いです。

竹原ピストル - Wikipedia

 

今回のアルバム「PEACE OUT」はシンプルな構成の編曲が多かった。つまりアコースティックな原曲生け捕りが多く、竹原ピストルという歌手を知るのにはうってつけの一枚になっていた。ちなみに前作「Youth」はすこし編曲に凝りすぎていたと感じる。

PEACE OUT (初回限定盤CD+DVD)

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1曲目から「ドサ回り数え歌」というアコースティックギターと歌のみのシンプルな楽曲であった。歌唱をするのにはもってこいの歌ではなかろうか。また彼がよくやる韻踏み、つまりライム、こういう言い方をすると怒られるが駄洒落、つまりは言葉遊びが気持ちよく響く一曲である。

 

2曲目は「虹は待つな 橋をかけろ」というバンド編成の曲であった。竹原ピストルという歌手の声はしゃがれている。SIONほどではないがしゃがれ声の部門にはエントリーする。そのしゃがれ声が生きる明るいロック調の曲であった。左側にふった電気ギターのオブリガードが目立つ。

いま目立つと書いて思ったが、聴覚に作用するのであれば耳立つ?というのではなかろうかと思い調べたらそんなことばありました。耳立つ。今後使っていこうと思う。

 

3曲目「一枝拝借 どこへ生けるあてもなく」もシンプルな楽曲だ。桜のイメージと跳ねるメロディがサニーデイサービスのアルバム「東京」収録のアレに似てる。

 

上記3曲を順序よく記載してみたが、これらは最近の竹原ピストルの曲だな、と所感をいだく。なぜならば、とてもきれいなメロディの曲だからだ。

かつて竹原ピストルは「自殺志願者が線路に飛び込むスピード」という曲を作った。音質なんてくっそ悪く、全体的に音が割れていた。過入力であった。それは音の過入力というよりは情念の過入力であった。

この曲はとにかく言葉をぎゅうぎゅうに詰め込んでいる。そのせいかメロディをどこかに置き忘れてきてしまったようで、小節におさまりきらない歌詞はラーメン次郎のごとく丼器の外面までもべたべたにしているようである。しかしそこに盛り付けられた熱量の凄味は圧倒的美しさを放っている。


【竹原ピストル在籍】野狐禅 / 自殺志願者が線路に飛び込むスピード (シングル・ヴァージョン) PV

しかし最近の音楽は音質がめっちゃくちゃ良い。煌びやかで瑞々しい。安物のイヤホンであっても音の感触が手に取るようにわかる音質である。しかしそれに依存しているのか歌にまったく意味のない曲が横溢している。それに比べてこの「自殺志願者が線路に飛び込むスピード」からほとばしる意味意義の大量たるや異常である。私はどんな音質良く着飾った曲よりもこちらを愛している。

しかし、その捲くし立てるようなボーカリゼーションは彼のイメージを固着化させてしまったかもしれない。しかし竹原ピストルはメロディを歌いたく無いというわけではないと思われる。表現のレベルにおいてチョイスしたあの形式である。音楽のメロディセンスはめちゃくちゃ鋭い。それを証明できる3曲がこの「PEACE OUT」の始めにはいっている。

 

歌が音楽である以上、つたえるべきは音なのかもしれない。が、歌が言葉を伴う以上、つたえるべきは言葉であって、それを極限化したものが昨今の流行しているラップである、と思う。

だから竹原ピストルもラップを試みる。そもそもその歌唱は言語を垂れ流すフリースタイルである。そのタケハラップが冴えるのは4曲目の「ママさんそう言った~Hokkaido days~」である。ブラックライトに照らされていそうなヒップホップトラックにタケハラップが乗っている。だからヒップホップみたいな曲である。であるが竹原節は顕在している。

竹原ピストルは北海道でバンド活動をしていた。そのときのエピソード的な歌詞であろうと推察する。韻踏みが面白く、また噛み付くようなボーカルの後ろで鳴るメロウなキラキラフレーズも聴き応えがある。そして下げの一句は「れぺぜん野狐禅」である。

 

だからか、そのあとの5曲目は「ぐるぐる」という曲が展開される。これは狙った因果か。

「ぐるぐる」は野狐禅時代の名曲である。卒業的なテーマをもった曲である。

恐らく一発録音であり、正確なBPMつまりビーツパーミニット、ようするに正確なテンポなんて関係なく、リズムはばらけている。その代わりそこにあるのは音楽の呼吸である。ギターも息継ぎをするように、それは下手くそな平泳ぎのように時に激しく、時に浅く必要な酸素を取り込み二酸化炭素をはきだしている。音楽の、否、リズムの呼吸が聞こえる演奏である。だからか演奏している表情が可視化する。眉間にシワを寄せて歌う姿が脳内バーチャルで浮かぶ。演者の表情が見える音楽というものは名演である。一音一音にたましいがこもっている。そんな曲である。2番のサビに入る前の息継ぎ、はぁ…めっちゃすてき。

 

6曲目「一等賞」も歌謡曲的メロディで好き。「人が見たことない走り方は~」ってとこが好きだな。助詞の使い方が器用で「ルールに乗っ取って、ルールを乗っ取って」という歌詞は連結しているのか、それとも独立しているのか、そんなことを考えてしまう曲であった。と、あまり歌詞の解釈的なことはじつは私は言いたくなく、だってそんなの自由じゃん、なんて思うわけで、そんな私、すてき。

 

7曲目「ため息さかさにくわえて風来坊」もデジタルバックトラックに乗せたメロディ主体の曲であった。平沢進みたいで、すてき。

 

8曲目「最期の一手 ~聖の青春~ 」

たぶん映画のサントラ的な役割を果たしたのか。そのへんはよく知らんのですが。これもまた正確なテンポというよりは曲の呼吸を意識したものである。切なさにはなんだかたくさん種類があって、ぬくもりのある切なさってあるじゃん?優しいかんじ?しかしやはり竹原ピストルの歌には最終的に切実さに繋がるという結があり、すてき。

 

9曲目「ただ己が影を真似て」

ピアノと歌のみ。あからさまな強いメロディーではなく歌詞を乗せるためのシンプルなものであるが、竹原ピストルのしゃがれた声が優しく響く。この人の浪曲的なフレーズのあげ方がすてき。

 

私は竹原ピストルという人間は職業歌手であるが、職業という皮をはいだら出てくるのが詩人ではないかと思う。彼の書く歌詞は詩なのだ。

しかし歌詞は詩である必要があるのか、と問われれば、そんな必要はない、というのが私説である。

歌詞は歌詞である以上、節回し、つまりメロディを伴うものであるからして、歌詞とメロディというのは二つでひとつだな、と思う。

対して詩というのは表意文字、文章単体として存在が成立する。つまり詩にメロディは必要ないということなのだが、竹原ピストルの歌詞は詩である。彼は詩をメロディに乗せて歌にしている。

 

竹原ピストルの曲は詩を音楽にのせる最適な手段を講じているのだな、と痛感する。それが私の好きな竹原ピストル節であり、今回の収録楽曲でいうと10曲目の「例えばヒロ、お前がそうだったように」である。

以前の曲のリテイクである。これが竹原ピストル、ひいては野狐禅からの伝統芸である。妻もこれがグッときたと言っていた。アコギ、歌、ドラム、ハーモニカ、最後にシンセサイザー。とにっかくドラムが良い。ドラムは玉田豊夢であった。熱気があり激しいのに流麗で柔軟である。ポンタ系とでも言いますか。

綴りようのない切実。言葉の間。ふとでてくる喜劇。とても日本語がなまなましく、口角に溜まった泡沫がほとばしるように言葉がとんでくる。

 

11曲目「Forever Young」

ロッドスチュワートだ。と思うのはおっさんだと思う。ループするデジタルトラックにピアノとアコギ。当たり障りのないメロディであるが、いい曲である。しかし竹原ピストルっぽいか、と問われればそうでもない気がしている。ただもうここまで書いていればバレていると思うが、私は竹原ピストルに見えない信仰心的ものを抱いているので、あぁいいなぁなんて思う。

 

12曲目「俺たちはまた旅に出た」

酒の肴になる曲ってものがあるとすれば、これだろう。

垂れ流す思いの丈がたらたらと垂れ流れるような愚痴のような、そんな愚痴を踏まえたおニューな心持ちなのか。そんな歌詞がすてき。

 

13曲目「マスター、ポーグスかけてくれ」

これはタイトルで噴飯物であった。ポーグスかけてくれって(笑)とカッコワライトジカッコをつけてしまいたくなる。

ちなみにポーグスというのはアイリッシュパンクというパンクロックにケルト音楽っぽい配合を成したジャンルの草分け的存在である。80年代の音楽ですね。もしアイリッシュパンクにご興味があるのであればポーグスよりも私はフロッギングモリーを推薦したいです。よりモダーンなので。

音源ではバンジョーが鳴っている曲です。これもまたゆったりと酒でも飲みながら聴きたいですね。

 

辞書をひきひき選んだ言葉を、羅列するような、中身のないみんなと同じおしゃれふうな歌詞が横溢している。それはどうなんだろう。と思う。ロックじゃねぇなと思う。

誰かが垂れた言葉を拾って噛んで吐き出したような味気ない歌詞だな、とおもってしまう。まぁそういう歌詞はだいたい曲が、歌がぽんこつなので歌詞なんてまず入ってこない。

対して、この竹原ピストルという人間の作る曲はどうだ。こんなに自分らしく、ってのも進路前の中学生ふうでなかなか忸怩たるものだが、なにをどう歌えばいいのか、を思案して歌っている人間はなかなかいないのではないか。だからつまり、竹原ピストル。もっと売れろ。

PEACE OUT (通常盤)

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ひとりで飯は食えるけど、ひとりだと写真が撮れない自分に消沈する

ブログカンケイ

 

こうして日記なんてものを綴っていると、書きやすいことというのは「食ったもの」であったりする。

どこのなにがうまかったとか、ここいらにはこういったご当地グルメがある、とかそれらはたいへん公益性が高い。よって読んでくださる方にも有益な情報として届き、今度食べてみよっかなーなんて思われたりする。それが個人ブログの醍醐味だったりする。

 

かくいう私もおいしいものを食べるのが大好き。また飯ブログとか大好き。見ていて楽しいし、あ、おいしそー!今度これ食べてみよー!ってな具合になったりする。

 

だから私もグルメブログ的なものにチャレンジしてみよっかなーなんて思う。私は都心に勤めているので比較的ご飯屋さんというのは周囲にたくさんある。よし!今日はここで人気のラーメンを食うぞ!写真をとって感想を書いてブログにアップだ!なんて思うのだけれど、まず写真が撮れない。

 

なぜだろうとおもんぱかってみる。おそらく羞恥心のブレーキがかかっている。

この羞恥心の原因はおそらく、スマホのカメラ機能による「カシャ」っと鳴る電子音が気になるってことなんだけど、なんでこれが気になるのかって言うと、たぶん周りの目や耳が気になってしまうってことなんだと思う。

ではなんで周りの他人の目耳が気になってしまうのかというと、これには精緻な心の機微がある。

訳をいえば、私は誰かが飯の写真を撮っていたりすると「あ、この人、ブログとかやってんのかな」なんて思ってしまい気味であり、それはつまり私個人の頭の中で「飯の写真を撮るニアリーイコールブログにアップする」という公式が成り立っているということである。

よって私が飯の写真を撮るためにスマホを「カシャリ」と鳴らすことは、私がブログなどをやっていると周囲の人々に案じられるのではなかろうか、と危惧することから気になってしまうんだと思う。

 

またスマホで撮るというお気楽なスタンスも恥じている。

これがニコンのカメラで、俄然寄れるレンズをつけて撮影していた場合、マジなそういう人だと周囲に敬服される。しかし私が操るのはアイフォン7であり非常にインスタントである。昨今ではインスタグラムなどが流行しているので飯の写真を撮ることになんら不可思議を感じる人は少数であると察せられるが、まずもって芋な30歳のおっさんがインスタグラムをやっていると思われることに抵抗があり、それは周囲の方々からの侮蔑の念を向けられているように感じてしまう。

 

これらはその最中の心の動作であるが、また撮ったあとでも危惧すべきことがある。

写真を撮っている姿を見られる。これは尽力して耐えるとしよう。しかしそのあと私が食った飯の写真を撮りブログにアップする。

そしたらそのブログに写っている注文した飯、着座した席、その席から取れる写真の角度や風景、テーブルの色、その他もろもろを計算され「あのとき、あそこでパシャパシャ写真とってた野郎のブログじゃん」となり、あの日、あの時、あの場所で相店した誰かに発見される可能性がある。これは非常にまずい。なぜなら私はある程度一定の店にしか行かず、そこで身バレすれば私は恥ずかしくてもうその店にいけない。行けないとなると日ごろの飯はコンビニ一辺倒となってしまう。

 

ではこれが本題であるがなんでブログをやっていることが恥ずかしいと感じるのか。

というと、たぶんこの己の自己顕示欲を現実世界の住人に晒すことに引け目を感じている。だから私は顔写真などを公開してないし実名でやっていない。だから「あいつブログなんてやってんのかよ。顔の皮が厚いやっこさんだぜ。阿呆みたいな顔してるくせに。」と思われることが我が自尊心の崩壊にリンクしているのではないかと思う。これは今後掘り下げて考えたい。

 

またブログの内容が内容である。自分で言うのは読んでくれている方に失礼なのだが、まぁくだらないですよね、私の日記って。なんかもっと、こう「静岡人が選ぶおすすめの鉄アレイ10選」とか「犬と猫をみわけるたったひとつの方法」とか「知らなきゃ損!?ストレスに打ち勝つための炊飯器の使い方」みたいな知識と教養を兼ね備えたブログならよかったんですけど、どうしてこうなってしまったんでしょう。しかしもうあとには引き返せない感がありますね。だから今後ブログの方針を改めるってのは難しいですね。

 

では、私が心置きなく飯ブログを開催するにはどうすればいいのか。

 

無音のカメラアプリがあんじゃん。とデジタル部門に明るい方はおっしゃるかもしれない。しかしちょっと待ってほしい。私の趣味はブログであり、つまり書くのも好きだが読むのも好きなわけで、面白いブログなどを読んでいるときは破顔しているのである。

とくに電車移動中などはブログを読むことが多く、電車内でニヤニヤブログを読んでいたときの場合を加味してほしい。つまり、もしそのタイミングで目の前に女子高生などがいらっしゃった場合、なんぞ気色の悪いおっさんと思われる。思われるだけならオッケーであるが、勘違いした女子高生は「如何なるものを撮影致したか!」などとわめき散らし私のスマホを奪還。「無音のカメラアプリじゃねーか!私のパンティ写していたんだろ!外道!」的な事を虚言されたらば、おしまいである。

このおしまい、というのはつまり痴漢と誤解されるということであって、なぜ痴漢と誤解されることがおしまいなのかというと、痴漢が冤罪とされる率はかなり低く、糾弾されたが最後、男という性に生まれたことを呪うしかないのであって、捕縛後投獄され、くさい飯を食らうことになる。

くさい飯を食らうだけならまだしも時代が時代である。つまり不況であることから税金の無駄だと言われる。つまりくさい飯と呼ばれる獄中飯であってもそれはみなさんが納めた税金から成り立っているわけで、飯だけではなく設備維持費というもので税金は浪費されるわけであって、不況の現状において痴漢なんてした人間に使える税金は無く、結果、極刑となりこの身は滅びる。

だからなんとしてでも痴漢の濡れ衣を着るわけにはいかず、それはつまり現代の痴漢回避解釈としては、勘違いする女よりも勘違いされる男のほうが悪いのであるからして、だから無闇に無音カメラアプリなんてダウンロードできないのである。

 

それでは他の解決策を模索したい。つまり誰かとともに飯を食いにいくことである。

誰かと一緒であれば会話や流れで「あーおいしそー」なんか言いながらパシャリと撮影が可能である。これはやはり誰かとともに飲食をすると心が強くなる、ということである。周囲が赤の他人のアウェイ状態であるが、となりに知人がいるだけで拠り所ができてホーム感を覚える。

さらには「ちょっと写真とっとこー」なんて言えるのは、その思い出を共有する、といった意味であって、ブログにアップすることを前提としませんよ、という言明を態度で周囲に示せる。なので基本的にだれかと飯を食いに行けばいいのだが、いま驚愕の事実を思い知ったわけであって私には友人が居ない。これが妻である場合、私はふだん飯を写真にとるタイプではないし、さらには妻はまだこのブログの存在をたぶん知らない。知らないだろうし知らせない。だから妻とは無理である。

 

しかも、今回のブログのテーマは「ひとり飯」である。冒頭陳述を致しかねたが、今回の日記ははてなブログのお題目に沿ってかいている。 

ではひとりで飯を食いながら無音カメラアプリを使用せず、飯の写真を撮る方法を思案せねばならない。それが思いつかずにこうして3000文字も日記を書いてしまいましたが、なにかいい方法ありませんかね。メンタルを強く持つとかいう精神論は抜きにして。

 

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

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いつかかっぱ寿司のカッパに復讐されるのではないか

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い

 

柳田國男が、妖怪とは神の零落した成れの果て、と言っていた。

例えばカッパである。國男いわくカッパはex.水神さまである。ようするに水神さまが人々からの信仰の対象としてはずれ、奉られた社が雨風浸食、風化荒廃、のちに用済破壊され、帰る場所を失いホームレスになる。すると妖怪カッパになる、といった理論である。

 

現在、水神さまを奉る神社はどれくらいあるのだろうか。カッパが飽和しているのではないか。

あんなに昔は雨乞いだ、水害だなんだと神の力としていいように奉ったくせに。農業の発展や品種改良された苗などにより干ばつに対する恐れがなくなると、かくもかんたんに信仰を失ってしまうのか。なんとも都合のいい神である。

これは都合のいい女に寄生する売れないヒモバンドマンに似ている。同じ穴の狸。君たち人間はヒモバンドマンをばかにはできないはずだ。

 

しかしカッパもただ指をくわえてだまっているわけではない。家族だっている。あたらしく買った甲羅のローンものこっている。水かきの手入れも月に一度はネイルサロンでやりたい。そんなカッパが一念発起して創業したのが、ご存知「かっぱ寿司」である。

 

カッパは前歴である水神のつてを利用し、あまたの魚をたやすくゲット。また雨乞いなどにより自前の水田はつねに潤いを持ち豊穣の一途をたどる。稲穂はみのるばかりである。その神力を利用し、資本主義をかかげる人間にまっこう勝負を挑んだのが飲食業界であり、回転寿司産業である。

各地の人間に追い出されたカッパを召集し、労働力も確保。前述の理由により魚介と米には困窮しない。まさに鮨の大量生産にはうってつけであった。

しかしもちろん思想や嗜好はカッパである。なので一番の推し商品はかっぱ巻きである。これがなかなか売れない。きゅうりなのに。あんなにおいしいきゅうりなのに。かっぱたちは考えた。…人間は野菜を食べないのか?頭上の皿によぎるのはそんな思念である。でもしかし人間はサラダなんてものを食べている。なぜだ。

つまり人間は野菜を摂取したい。健康志向である。そこでサラダを食べる。しかし実際そんなに野菜は好きではない。できれば魚や肉がほしい。しかし食事にサラダを取り入れないと健康が害されてしまう。だったら混ぜてしまえばいい。

そこで開発したのがサラダ軍艦である。

 タコやイカ、貝類などをボイルした後、塩コショウで味を調え、さらに食感をよくするためにキュウリを混ぜたものをマヨネーズで和えてみたところ、美味しい具となったためにそれを軍艦巻きに仕立ててお客様にお出ししたのが最初

と、かっぱ寿司のホームページには記載されている。

最初はきゅうりが入っていたんですね。

さらに、

その後当時の従業員の「カニカマを入れればもっと味わい深くなるのではないか」とのアイディアを取り入れ、現在の「サラダ」に近いものになったと言われています。

引用:http://www.kappa-create.co.jp/menu/salad.html

 

こうしてサラダ軍艦は「サラダ」という名前だけ残して海鮮のマヨネーズ和え軍艦となったんですね。現代の健康志向を志す人々の胸撃つ「サラダ」の響きとその矛盾。しかしその美味もあいまってこれが大ヒット。

こうしてかっぱ寿司は、高度経済成長という追い風も相まって、回転寿司業界において雄となった。

 

すみません、こっから本題です。

昨日わけあって国道を走っていると、いつも見るかっぱ寿司の看板がかっぱ寿司のものではなくなっていた。

諸行無常とはいいますし、禍福は糾える縄の如し。盛者必衰のことわりなんてのもありますから、店舗がつぶれてしまうこともありましょうに。と思い目を凝らしてなにができたのかな、なんて訝ってみてみると、

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かっぱ寿司であった。それは紛れも無いかっぱ寿司であった。

かっぱ寿司のロゴが変わったのだった。しかしそこにカッパはいない。つまりまたカッパは居場所を失ってしまったのだ。

また人間のしわざである。またカッパは利用されたのである。カッパによる、カッパのための、カッパの社は人間の手に落ちてしまった。

手柄の横領である。これはかつて水神さまの恩恵により栄えた稲作文化を自分たちの力と勘違いした人間による信仰の欠落。それと同じような顛末である。

しかしカッパのいないかっぱ寿司なんて、マリリンマンソンのいないマリリンマンソンではないのか。そんなの破綻している。おかしい。

 

私には人間の思惑に翻弄されつづけたカッパたちの悲しい後ろ姿が目に浮かぶ。あんなに新しかった甲羅もいまではもう欠けたりひびが入ったりしてぼろぼろだ。それだけ無我に働いたのにこの結末である。バッドエンド。こんなのってありかよ。

 

また居場所をうしなったカッパたちは、つまりex.水神さまは次はどんな手段を講じるのか。

おそらく次は直接的な行動にでるだろう。私はそうおもんぱかっている。つまり近年、水害、干ばつ、もろもろの水災害が起こる。カッパたちはそのチャンスを虎視眈々と狙っている。

 

その危惧は日曜日、花見に行こうとした我々一家にみごと的中。なのでさんざんと降る雨の中、しかたなく私は子どもと水溜りで遊びました。

こうやって雨災がつづくんじゃないですかね。それもこれもかっぱ寿司のせいだと思います。

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我が家のかっぱちゃん

ら抜き言葉の静岡人

まじめな話であるが基本的に私はまじめなのでふざけた話など無い

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「ごはん食べれる?」なんて妻が言うもんだから、「おまん、それラヌキ言葉だで」つったら、妻はきまりの悪そうな顔をして、「でもさ、それはもう定着してるからラヌキ言葉じゃないよね!」なんておっしゃっていました。

自分に甘い人だな、と思います。なぜならば妻はいつも「ラヌキ言葉がきらい」なんて言っているからです。

 

ラヌキ言葉と表記したしましたが、これじつは「ら抜き」言葉のことです。いま世間に横溢してませんかね。私はA型のみみっちい人間なので、すごく気になってしまうのです。あ、また「服着れる?」とか言うでしょ。着られる、ですよね。「着る」は上一段活用ですよ。

 

テレビ番組も悪いと思いますよ、私は。と倒置法を使ってみましたが、そう思うのです。

先前、テレビジョンに受像されたラーメンの映像を眺めていたら、テレビタレントかなんかが「たまご、つけれますか?」なんて言うんです。

いや、いいんです。言う分には。けどさ、テロップというんですか。まぁ字幕ですよ。字幕はしっかり記載しないといけないと思いませんか。良識ある大人の日本人がテロップをつける際には正しく放映してほしい。だからせめてテロップには「たまご、つけ(ら)れますか?」と記載してほしい。というのがさいきんの私の瑣末な願いごとなんです。

 

しかし静岡人が「ら抜き言葉」を使うのは仕方ないかな、なんて思います。

 

申し遅れましたが、私と妻は静岡で生まれ育っています。いまはすったもんだがありまして埼玉に亡命してます。命からがら逃げ込んだ武蔵野の地に居をしつらえ、もう10年ほどになります。

そんな私たちですが静岡の血に抗えず、ごくたまに静岡弁をつかってしまうのです。めし作らにゃあいかんだで。とか、とんで帰るずら。とか言います。スーパーもちづき*1行かざぁ。とか、さわやか*2行くだでぇ、とか言います。

本当はそこまであからさまではないです。しかしまじで出ちゃうのが、語尾の「ら」です。

これは「お茶飲んだら?」みたいな感じに言います。ちなみに提案の「ら」ではありません。静岡人の語尾の「ら」は過去推量です。「〜したでしょう?」みたいな感じです。

つまり「お茶飲んだら?」は「お茶飲んでしまったでしょう?」って具合です。主に確認のために使用します。返答も「らぁ?」なんてします。「たしか…飲んだかなぁ?」ってニュアンスです。だから良い加減のときは静岡人ってのは「ら」だけでなんとなく意思疎通が図れるんですね。「ら?」「らぁ?」なんて。意味は「したよね?」「したかなぁ?」って塩梅です。

 

そんなゴビラ*3が染みついているんです。だから静岡人が「ら抜き」しないで言語を発するとなると、「食べられるら?」となってしまいます。

これ、一度声に出して言ってみてほしいです。

たべられるら。

むずかしくないですか。たべrrlrlら、みたくなりませんか。RとLが唇の先でからまりませんか。「られるら」の前の「た」のtの舌先の跳ねる感じと「べ」のbの唇を紡ぐ感じがまたやっかいですよね。

 

だから私は静岡人が「ら抜き」言葉を使うのは、言葉の伝達のしやすさ、言いやすさといったポイントにおいて言語の進化だと思っています。つまり静岡人は「ら抜き」言葉を唯一使っていい人類なんです。

 

となると、さいきん「ら抜き」言葉が多いのは静岡人が世間に増加しているってことでしょうか。静岡の人口が減っているらしいですからね。

*1:静岡を牛耳っていた巨大スーパーマーケット。通称スーもち。いつのまにかつぶれていたが。

*2:たぶん有名な静岡のハンバーグチェーン店。おれはそんなに美味くない、と思っている。

*3:語尾に「ら」が自然発生してしまう風習という名のバケモノ

ブログの趣味化

日記

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平日の午前中に自宅邸にいる。ぼんやりとしている。コーヒーなんて点てちゃったりして放心している。くすんだ灰色とうすい空色の混じった曇天のした、お庭の軒下で無心になっている。

とうとう日ごろのサボタージュが判明言明され、会社から肩を叩かれクビになった、ってことでなく、子どもが保育施設の転園のため慣らし保育というやつの渦中にいる。よって午前中は休暇をとった。なので解雇はされていない。たぶん。

 

そういうことで転居して初めてこの家でひとりだけ、ってのを体験している。

さぁなにしてやろうかな!って具合にわくわくしている!タイムリミットは午前中だけなのだけれども。っしゃあ!!木板にひっぱり付けた鉄線でも弾いて音楽でも奏でようかな!それとも久方ぶりにPC内にダウンロードしたメタルギアソリッド5でもエンジョイしようかな!いやオルフェンズでももっかい観なおそうかな!でも時間がないから映画でもみようかな!うっひゃーひとりっていいね!自由だ!おれはいまなんでもできる!!やっぱりひとりでしか出来ない奇行、独自に開発した拳法の練習でもしよう!こんなの家族に見られたら離婚も危惧されかねないからな!って思って、けっきょくブログを書いている。どうゆうこっちゃ。

 

というか趣味だったものが特段めちゃくちゃやりたいって感じなくなってきていて、え、やばい。それって鬱じゃん。心療内科に足を運んだほうがいいのではないのかな。ってたぶんそんなことはなく、ってゆうのは落ち込むこともあるけれど私は元気だし、じゃあなんであんなに好きだったことがやりたくないの?疲れているの?と己自身を翻ってみてみると、まぁ疲労はしているがほどほどであり、でもしかし日常生活に支障はない。快活である。つまりこれはどうゆうことかというと、なによりもしたいことがブログ、いわゆる日記の記載であって、べつに他のことがしたくないわけではなく、ただの優先順位的な問題であった。よかった私は元気もりもりです。

 

ブログが趣味になってしまって困っている。先前ちょこっとギターを弾いてみたらぜんぜん弾けなかった。右手におけるピック運動の上下に追いつかない左の指先がバタつく。これはまずい。下手になっている。まじやばい。と思いじゃあ音とるのもできんくなっているのか?と恐怖ながらに、セッション課題曲を聴きながら弾くとそれは意外とできた。ぜんぜんオリオンをなぞれたわ。しかしギターはまじでへたっぴになった。と思ったが、もともとこんなもんだったわ。想像上の自分はいつでも美しい。

 

ブログの趣味化にたいへん危険を感じている。

というのも、もしも私が、近々に徴兵などにかり出された場合、あ、これはブログに書けるな。社会の理不尽を訴えてバズるな、なんて思い、ほんらいは持込禁止であるはずのスマホを肛門内に隠し兵舎に持込し、夜な夜な、徴兵された青年たちの「おうちにかえりたいよぅ」なんてすすり泣きのなか、バックライトの明滅がばれないようにふとんをかぶって日記の更新などを敢行し、その記事はけっきょくネットで話題になり、もちろん兵士長などの小耳にも伝達され、兵士たちの一斉身体調査がなされ、それは個別にターン制で順番にまわって来て、おれじゃない!なんて絶叫しながら、みんなが鞭や磔などの拷問によって自白を強要されるのを聞きながらも、私はブログの更新を続けてしまい、結果、この国が内部から崩壊。格下相手の楽勝の戦争だったはずが、相手の根気あるゲリラ戦なども相まって敗北し、この国に行く末を暗くしてしまうのではないか、なんて思っているのです。

 

だからブログの趣味化は危険ですよ。

生きていてよかった ×15 深夜高速について

日記 音楽 ニッポン

 

ぜんぶゲットワイルドって、あはは。突飛。しかも不備って。てかそんなの間違えちゃうよ。

www.cinra.net

 

おんなじ曲だけでアルバムなんて珍奇だなーなんておもっていたんですが、そんなトリビュートアルバムがあったことをふいに思い出し、日記の記載にいたりました。

深夜高速-生きててよかったの集い-

深夜高速-生きててよかったの集い-

  • アーティスト: オムニバス,キャプテンストライダム,かりゆし58,藤田大吾,GO!GO!7188,YO-KING,フラワーカンパニーズ,斉藤和義,金子マリ,怒髪天,ミドリ
  • 出版社/メーカー: SMA
  • 発売日: 2009/09/16
  • メディア: CD
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フラワーカンパニーズという日本のロックバンドの一曲「深夜高速」を13組の音楽関係者がアレンジカラオケしたものです。 と説明的文章を記載しておきます。

以下の曲目をみたときはちょっと笑ったね。

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引用元:アマゾンの説明文

13組のカバー曲と、2曲は本家がやっているので15曲の収録ですね。それにしても、こうしてみるとやはり珍妙滑稽です。

 

しかし「深夜高速」はいい曲だな、といつも思う。音楽理論的な名曲ではない。しかし音楽の本来持つべき、心をゆさぶる、という意味において名曲だな、とおもっている。かっこよいこと書きましたが、っていうのが照れ隠しの姑息な手段ですね。

 

各カバーについて詳細に書いたらだいぶ悪口になってしまった。なので好きなカバーだけ抜粋して記載しようとおもいました。

 

7曲目の泉谷しげる。

歌はもちろん泉谷しげる、そしてバックの演奏がフラカン本人。なので良い。フラカン竹安のギターがとても好き。バッキングがとても良い。理屈っぽくなくて。めちゃくちゃ技巧派ではないけど、ギターの心をもっている人だな、と思う。リフとかさ、ソロとかもロックンロールしてる。この「ロール」が出来るギタリストってあんまりいない。

 

9曲目おとぎ話。

そもそもバンドの曲なのでバンドが合うのだろうけど、原曲の直情的なニュアンスではなく、ダウナーにもっていったところにセンスがすごいなぁと思いました。おとぎ話ってあんま知らんのですが。このカバーを聴くかぎりいいバンドでしょう。なんか今度聴いてみようかな。

 

13曲目GO!GO!7188。

イントロの雲行きがあやしめだったんですけど、良かった。この曲、間奏がメジャーになったりするんですけど、そのメジャー感は参加バンド中でもっともうまいし、フレーズやアレンジに深夜高速という曲への愛が感じられる。ってえらそうに申し上げてますね。でもゴーゴーは良かった。素晴らしかった。

 

14曲目ヨーキングこと倉持陽一。

風呂場で歌ってます。リバーブが。残響が。倉持さんにかんしては、彼の声だけで私、昇天してしまうのでなんとも言えないです。世界でいちばんかっこいい声してるもんなぁ。

 

って感じでよかったんですけど、やはり本家本元には及ばなかった、というのが印象です。

深夜高速という曲は表題の「生きていてよかった」なんてあからさまなフレーズを放つ歌詞なんですけど、最後にそれを否定するかのように「そんな夜を探してる」って続くんですね。なんだまだ「生きていてよかった」って思ってないのかよって。これがまた切実で、切迫していて、喉の奥がじんわり熱くなるんですよ。

まぁ最後のサビは「生きていてよかった」で終わって、しかもいままで短調だったのが長調のコードで終わって光明一筋刺さる感じで終わるのがまた良いんですけど。

 

いつもこの曲を聴いて思うことは、現状への葛藤みたいなもので、それはなぜかといえば、やはり人間歳をとるからなんだな、なんて思います。

 

もしもこのままずっと20歳くらいならば、この曲にこんなにどっぷり肩まで浸かって身に沁みるってことはなかったかな、と思います。でもだからといって20歳くらいの人に受けないわけではない、と思う理由はみんな加齢による無難な展望をもってしまっているからであって、どこかこのままじゃいけない、とか、このまま生きていけるのかな、なんて思うところに響くからなんじゃないでしょうか。

 

私もずっと好きなことして生きていけたらいいな、なんて思ってました。たぶん現代のニッポンならば生活の形式を問わなければ、それができる気がします。一生フリーターでバンド生活!なんて。しかしそうやって生きていけないのは覚悟や信念うんぬんよりも、しがらみやら血縁やら老衰ってのがあるわけで、それらが蹴つまずく隆起として人生にはあるわけで。北の国からみたくなっているわけで。

 

フラワーカンパニーズもめちゃくちゃ売れているバンドではなく、いまだってスタッフを付けないでバンドメンバーのみでバンドを運営しているドサ回りバンドである。数年前になんかしらんがフラカンブームみたいなのが小規模で起こったが。89年に結成してるみたいでずいぶんと長く活動している。さまざまな葛藤があったんだと思う。

この深夜高速だって発表したのは彼らが35歳とかそんな時期だった。正直この曲ってフラカンぽさってあまりないように感じる。時代が必要とする歌を、その葛藤をいちばんもってやってきたフラカンが生み出した、って結果な気がする。

 

この曲でタレントの伊集院光氏はフラカンのファンになったそうですが、こういう芸事、上記のバンドマンたちもそうですが、世俗的因果な商売をしている人たちならば余計身に沁みて考えてしまう曲なのかな、なんて思います。

だからみんなこの曲に胸を撃たれて、この曲のように「生きていてよかった  そんな夜を探してる」って歌いたかったんだろうな、だからこんな阿呆みたいな企画のトリビュートアルバムができたんだろうな、なんて思いました。