まだロックが好き

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夢破れたサラリーマンがおめおめと生きている日記

2歳男児の乱暴な遊び

 

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わが家に住まう2歳半男児の遊戯がさいきん熾烈を極めている。

具体的には、トミカという小型自動車模型を両の掌に握り締め、「盤」や「丼」または「土管」などと叫び、発狂してそれらをもてるかぎりの力にまかせて衝突させる、といった行為である。

 

これに異を唱えたのは彼の母であり、私の妻である30歳女性。彼女は以下のごとき陳述をした。

「当節、かくなる乱雑な遊戯がしきりに見受けられる。なにか精神情緒の不安があるのではないか」

 なので私は答えた。「心配御無用。なにを隠そうこれは男の遊びである」と。

 

生誕2年と半年にもなれば男女間での遊戯のちがいが発生する。そう思ったのは先前、わが家の2歳息子とほぼタメの女人が、ちいさなベビーカーにカワウソちゃんのぬいぐるみを乗車させ、ころころと近所を徘徊していたのだ。つまりこれは「おかあさんごっこ」なるものであり、母というペルソナ、女性という「型」を模した女性的遊戯であった。

 

となれば、わが息子にも「男の遊び」が芽吹くのも道理である。

 

もちろん私の妻は女人である。ゆえに「男の遊び」というものがわかっていない。だから私は言い放った。「男の遊びとは闘争の繰り返しである」と。

 

男の遊びは闘争である。これは社会人になったいまでもそうである。大人のおとこの遊戯、つまり嗜みは「飲む、打つ、買う」であるが、闘争はおもに「打つ」に対しての関連コンテンツである。闘争の繰り返しで学ぶもの、それはさまざまである。しかしこの日記で言いたいのは「敗北の意識」である。

 

元男子であれば心あたりがあるとおもう。いつだって俺たちは戦ってきた。そのほとんどは目に見えない敵だった。頭のなかにいる巨悪であった。想像でつくりあげた虚像であった。勧善懲悪。悪は滅ぼす。それはもてあました正義感を力に変換し、はけ口として虚像を滅ぼしていた。木の棒で。

 

どうして男はかくなる愚行をするのか。それは正義は勝つってことを知るためだけではない。そこには敗者がいる。悪という理由付けをした敗者である。しかしそれは自分でつくりあげた敗者である。そして自分も敗者になる可能性を鑑みる。いつかそのときが来る、と身構えるのである。

 

息子は先日負けた。それは上記で登場した2歳タメの女人に負けたのである。

女人は外車に乗っていた。それは幼児専用のペダル稼動式車であった。息子はそれに乗りたかった。ゆえに媚びた。彼女に媚びたのだ。そこに一切のプライドはなかった。しきりに「すごいね」「かっこいいね」「やばいね」などと賛辞をおくった。彼女の機嫌をとるためである。彼女の機嫌をとり、車を貸してもらおうという魂胆だったのだ。しかしそれは叶わなかった。相手もやはり魔の2歳児であった。融通はきかなかったのだ。そして息子は負けた。けっきょく乗れなかったのだ。彼の誇りだけがぼろぼろになって返品されてきた。私はいっしょう忘れない。あの時の息子の熱い落涙を。

 

そして上記顛末がありしのこの行為である。

息子はせいいっぱい強くなろうとしている。それは単純なフィジカルな力ではない。メンタルのほうである。彼は知ろうとしている。この世には2つの分道がある。それは勝つか、負けるかである。勝つことはもちろん誇らしいことである。努力の末に手に入れた勝利の美酒ほどうまいものはない。しかしいっぽうで敗北もある。それを知ろうとしている。

 

「だから乱雑に見えるその衝突や破壊には意味がある。そこには敗者と勝者がいる。それを彼は自分で選び、そしてこの世の中には勝つものがいれば負けるものもいる、というのを自分でコントロールしている。つまり彼は人生の模擬戦を行っているのだ。その掌のなかで。」

 

と、妻に演繹を陳述いたしました。「あ、そう」と言われました。私はなんだか負けた気がしました。