まだロックが好き

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夢破れたサラリーマンがおめおめと生きている日記

満員電車で「降ります」と言えない真理

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私は今日も元気いっぱいに通勤した。30歳である。

高崎線直通上野東京ラインをりようしている。私はいつも新橋で降車するのだが、その手前の東京、そのまた手前の上野というのはビッグターミナル駅であり人口過密地帯である。だから人がたくさん降車するのである。今回のそれは上野駅にておこった。

 

私が吊革をにぎりしめていた。いつものように般若心経の黙唱に血眼した。すると、私の背中をなにかが圧迫してきた。「痛覚が反応している」と私は咄嗟にのけぞった。とても痛かった。痛みを感じるのなんて俗世的。まだ釈迦の境地にはなれないな、と反省した。それとともに東日本旅客鉄道株式会社に憤慨した。「降車のさいは、挙手申告制を導入すべきではないか」と。

 

「そんな苦言をブログに書いてやろう」なんて思いを抱いた。この日記は私のストレスのはけ口なのです。そんなわけで記載にはしっている。しかし苦言ばっかり書く日記が誰の役にたちますか。私は誰かの役にたちたい。だから考えたのです。

なぜ満員電車から降車するさい「降ります」の一言がいえないのだろう。と。

 

私は結論に達した。

これは「言えない」のではなく「言う必要がない」のである。

 

電車のなか、揺られる人々はさまざまな方法でその時間を有効活用している。音楽を聴いたり、スマホでゲームしたり、サンバのリズムを感じたり。

いっぽうで人は読んでいる。それは新聞、それは書物、それはインターネットだったりする。みなさまざまな媒体を読んでいるが、しかし車内全員が共通して読んでいるものがある。それは「空気」である。

 

満員電車とは殺伐とした空間である。かつて日記にも書いたことがある。電車内でいさかいというのはよく発生する事象である。だってみんなこれから行きたくもない会社に行き、やりたくもない仕事をする、会いたくない人間だっているんだ。そう思わない御仁もいるかもしれないが、まぁ希少性の高い御仁だとおもんぱかる。

だから車内は緊迫しているのである。鬱憤で張り裂けそうなのである。それは切迫しているのである。人の数だけストレスがある。

 

そんな西暦1914年バルカン半島並みの火薬庫で空気を読まないのは、ニアリーイコール「死」である。いつなにが炸裂するかわからないこの空気を読まずにいるなんてまったくどうかしてる。だからみんな全身全霊をもって神経を研ぎ澄まし、空気を読んでいるのである。生きねば。

 

空気を読むとどうなるか。他人の挙動にびんかんになるのである。

つまり右となりで密着する人物がふいに左手を挙げたさい、「なにかくる!」と反射するということである。その左手が急にこちらに降りかかってくることもあるかもしれない。そんな理不尽な暴力があってはたまらない。いや、たぶん電車内上部の荷棚にある荷物に手を伸ばしただけかもしれない。しかしその場合であっても荷物から鉄アレイが電車の振動に共振、突出し、私の頭上に降り注ぐかもしれない。もしかしたら手を伸ばした荷物は彼のものではなく現金3億円のはいった銀行員のもの、それをそのまま拝借、ついでに私の5億円はいったバッグも強奪し、電車の窓を破砕、飛び出していってしまうかもしれない。

 

これらはありえないことではない。満員電車ではなにがおこるかわからない。満員電車に満ちているのは予測不能な可能性である。

 

しかし予期できることもある。駅に到着したならば「誰かおりる可能性がある」ということである。

なので駅到着後、背後でうごめく人がいたならば「あ、この紳士はここで降車するのだな。彼の車内降車ルートを予期すると、私と衝突する可能性がある。これはいかん。すこしずれよう。」となる。

すると私が半歩ずれた先、淑女はおそらくこう思う。「この人が私を圧迫してきた。しかしこの人は書物を片手に降りる気配が無い。ということは誰かが降りるための導線を確保するために半身をこちらに押し付けたのか。では私もすこしずれよう。」

この伝達がねずみ講方式で伝播される。伝播されるとどうなるか。降りる人はべつだんなにも言わずとも降りられるのである。

 

では、降りる人間は駅到着まで与太郎気味になにもせずにいればいい、というわけではない。降りる空気をかもし出さなければならない。でなければ降りられない。なぜならここは戦場だからだ。

なので降りたい意志を持つものは、読んでいた書物をとじる。スマホをしまう。うつむいていた顔を上げる。迷惑がかからない具合にすこしうごめいて「あ、次おりますんで」的な雰囲気を出す。などの行動をしなければならない。

 

しかしここで息巻いて「降ります」と宣誓するのは非常にナンセンスである。

 

なぜか。それはなんとなく降りる準備をしたさい、その空気は水平展開される。みんなが導線確保に躍起になる。そんな空気で「おります!」と発言することは、「周りの人間は阿呆である。私が降りることを察せられないだろう。ばかものめ。ここはいっぱつクラクションを鳴らし、降車のルートを確保しなければ」と、つまりは、周りを見下している、ということである。

 

愚弄である。それは周りの空気を察してくれた御仁に対する狼藉である。そんなこと言ったら「わかってるから避けてんだろ!あほか!」となり喧嘩が勃発する。

 

つまり、私がぽんこつだったのである。私になにか硬いものを擦りつけてきた御仁はおそらく、燦然と輝く降車オーラをだしていたにちがいない。それをば私は気がつかなかったのだ。なぜならば生半可な血眼で読経していたから。日々反省である。私がおたんこなすでした。

 

新橋に到着するすこし前、私はやる気に満ちていた。「オーラだ。降りるオーラを出すんだ」と体の精孔をひらいた。東京駅から座席に座していた。私のまえには吊革をにぎり、イヤホンで音楽を聴き、スマホをもてあそぶ紳士がいた。かっこうの標的である。私は「降車オーラ」を纏うため背筋をのばて居直し、車内の電光掲示板をのぞき、腕時計を流し見た。

 

新橋に到着。電車がとまる5秒前。私のオーラは全開だった。しかしいっこうに御仁は気がつく気配がない。つまり、かなしいかな、私の降車オーラは足りなかったということだ。悔しさが積みあがった。なのでしかたなく物理的手段をとった。腰をすこし浮かせ、手包丁を切り、失礼を承知で放った。「すみません」という最高の降車オーラを。

 

それでも気がつかない。なんということでしょう。しかし私は思った。「あら、この人は涅槃に日帰り旅行中かしら。つまりいま彼は暫定釈迦」。崇拝した。

だから私はおもむろに立ち上がり、彼のわきの下をくぐり、ありがたみを感じつつ無理やり身体をおしつけ降車した。