まだロックが好き

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夢破れたサラリーマンがおめおめと生きている日記

どうして自分ばかり不幸なのだろう

 

自分ばかりに不幸が降り注ぐ。なぜいつも私だけ?そう思う。つらくなる。かなしいではなくつらい。そして死にたくなる。本日もそうだった。なぜ私の塩鮭ばかり骨だらけなのか。

 

今朝めしどき。メインにこさえたのは塩鮭である。ひとつ100円の塩鮭である。冷凍塩鮭である。それをキャベツと共にアルミホイルにつつみ、フライパンで蒸し焼きにした。包みの総数は3であった。妻、息子、そして私の塩鮭である。

 

息子の塩鮭は分解する。息子は2歳児である。ゆえに自分で魚骨を除去できない。やれやれ。まったく非力な存在である。魚骨はその小さなボディにかからわず、大きな危険を秘めている。喉に刺されば不快感とともに滅びたくなる。だから私は息子の塩鮭を解剖し、魚骨を取り除いた。危険と決別するために。

 

息子の塩鮭には魚骨がすくなかった。少ないといっても大きな骨が2、3本あった。また中規模のそれが3、4本あった。小骨は少なかった。ゆえに今回の塩鮭はヒットだ。とおもった。それがいけなかった。

 

拵えたのは、玄米白米ブレンドめし。わかめスープ。くめ納豆。そして塩鮭キャベツのホイル蒸しである。

 

私より先に妻が妻の塩鮭を食べていた。ぱくぱく食べていた。これは安心感であった。息子の塩鮭も妻の塩鮭も骨があまりない。畢竟、これは私の塩鮭にも魚骨はすくないのでは?

期待に胸がおどった。おどりながら塩鮭を破った。魚骨は見当たらなかった。順調であった。世界はいつも通り、しづかにまわっていたのだ。

 

塩鮭を唇に運ぶ。私は食いつく。そして咀嚼する。ひとかみふたかみ。なにもなかった。みかみ目である。異物感であった。魚骨である。これは小骨と呼ぶにはいささか難のあるものであった。私は憂いた。それは小さな憂いであった。この時までは。

 

そんなこともある。すべてが順調では末恐ろしい。私は生まれてこのかたそんなにラッキーボーイではない。だからそうなんだ。そういうこともあるのだ。気を取り直して塩鮭を口に運んだ。されども、魚骨はいつも私と共にあった。私は五度目のそれでついに発狂した。

 

なぜ。私ばかりなのか。なぜ私だけ魚骨がこんなにあるのか。魚骨に「いつまでも一緒だよ」なんて言われても嬉しくない。呪いだ。そう思った。私は気が狂った。おれの人生はいつもこうだ。なんでおればかり不幸なんだ。どうして貧乏母子家庭なんかに生まれてしまったのか。人生は正確ではない。哀しみも、憂いも塗り替える怒りの色彩が眼前に広がった。それは塩鮭のごとき橙だった。私は、死のう。こんな人生もう嫌だ。と思った。

 

そんな私に、妻が言った。「この間、わたしもそうだったよ!」

 

なぜ生きているのか。彼女はこんな不幸に見舞われても今日を生きている。強い。そうおもった。私にはない「なにか」を持っている。急激な劣等感でまた死にたくなった。

 

妻は「でも私のは今日はだいじょうぶだった!」と言った。私は世界を理解した。つまりそういうことなのだ。

 

みな「自分ばかり、自分ばかり」とおもっている。しかしそれはタイミングでやってくる。人生とは不幸のほうが目立つ。それは魚骨のごとき小さなものでも異物感をおぼえる。だから瑣末なものごとを取り沙汰しては発狂してしまう。だれしもに魚骨はあるのに。

 

塩鮭は開いてみないと魚骨がどうなのかわからない。人生とはそういうものである。人生は塩鮭だ。そんなことを思った日曜日の朝であった。曇天がのっぺりと広がっていた。いつか私にも光が差すのだろうか。

自分を不幸にしない13の習慣

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