まだロックが好き

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夢破れたサラリーマンがおめおめと生きている日記

親が子どもにしてあげられること

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Kids

ひとは悲しいかな、学ぶ。そうするとそれを活かそうとする。それは茶の煎れ方やソラマメのむき方、上野動物園でパンダをいかにうまく見るか、などの日常生活から、いうなれば「生き方」まで支配する。

 

私も人の親となった。子どもが生まれればオートマチックに親になれる。そこに大儀はない。しかし親とは愚者である。子どものあるべき未来を限定しようとしてしまうのである。それは親の学びから由来する。

 

私は自身の子に「自由に生きてほしい」と願っている。私自身が貧乏であったゆえに限定された選択肢しか発見できなかったからである。しかしその「自由に生きてほしい」という願いすらも、もしかしたら子どもの未来を限定させてしまうかもしれない。

 

つまり子どもはもっと拘泥された人生を送りたいと思っているかもしれない、ということである。

 

私が息子にさまざまな選択肢を今後与えるかもしれない。たとえば習い事である。自身がやっておけばよかったと思うようなピアノやら水泳やらの習い事を、自分の子にはさせてあげたい、なんつってやらせる。これは私のエゴである。それはいやだ。

 

だから子にこう尋ねる。「なにかやりたいことないか?」と。これは一見、無限に広がる選択肢の中から興味のあるものを選ばせるという尋問であるように感じる。

 

しかしわが子の本心というのはじっさいに見たことがない。というと、上記のような唐突な質問など望んでいないかもしれない、ということである。

 

彼の本心は「父母の進言によって与えられる選択を歩みたい」と思っているかもしれない、ということである。つまり彼は「柔道をやれ」と言われたら従順に柔の道に進みたいということである。親の言うことを素直に聞く子という役に徹したい、と思っているかもしれないということである。そんあことあるのか?と思うけれども、とくにやりたいことなどなかったらそうなのかもしれない。それに親の進言により新しい道も開けるのかもしれないのである。

 

上記で「自由に生きてほしい」と願っていると記載したが、それ自体、「自由に生きるべき人間に育つように教育方針を定めてしまう」ということであって、それが本当に自由なのか、というとそうではないんじゃねぇのか?と思ってしまったのである。

 

頭の良い子に育ってほしい、と願う親はたくさんいると思う。しかしじっさい、頭が良すぎるとさまざまな物事についていちいち思慮深くなってしまい、結果、精神を病むかもしれない。

やさしい子になってほしい、と願う親もたくさんいると思う。しかしじっさい、やさしすぎると他人のことばかり気になってしまい、周りの人のことばかり憂い、そして自分のことができないで鬱積し、うつ病などにかかるかもしれない。

 

というのも、たぶん馬鹿で傍若無人に生きていたほうが、楽しい人生であるように私は感じるからである。だからといってそうなるように調教するのもじっさい息子は望んでいないかもしれない。だからよくわからない。子育ってってなに?

 

で、最終的に思った。それは健康ってやっぱ大事だなってことである。

 

なぜなら健康であって問題となることなどないからである。だからとりあえず息子が健康でいられるように食事などに気をつけたい。

 

しかしそこでまた気になるのが息子は健康に気をつかったような食事などほしくないかもしれないってことであって、それはもっと言えば健康な体などもほしくなく、病床に臥せた悲劇の子どもをしたいかもしれないってことであって、まぁそれはさすがに不謹慎だなと思うわけで、もうだから「こうなってほしい」みたいな子どもの未来なんて意識しないほうが良いのかもしれない。