まだロックが好き

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夢破れたサラリーマンがおめおめと生きている日記

満員電車にサンダルを履いて乗ってくる女

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今朝。高崎線。電車内。サンダルを履いた女性が入ってきた。

私は「踏まないようにせねばならない!」と身構えた。

しかし、これってどうなのだろうか?と思った。

 

なぜならばサンダルを履いてきたのは彼女の意志なわけである。

それはもちろん、彼女のファッションに対する信念や、高温多湿の領土における服飾の機能性、足蒸れによる臭気などを加味した結果、ゆえのサンダルチョイスなのだと思う。

 

がしかし、それを目視確認した他者が危惧し、おもんぱかるというのは一体全体どういった因果なのであろうか。

 

無論、平日朝の電車というのは乗車率が甚大である。

「足の踏み場も無い」という形容で修飾される日本の満員のそれである。

 

そんな車両内ににサンダルで入ってくるというのは、まるでパジャマ姿で戦場に赴くようなものではないだろうか。

炸裂する轟音と閃光。絶え間ない銃声。ほとばしる薬莢。塵埃と硝煙と血と死のにおい。誰かが叫ぶ声。そんななかで水玉模様のパジャマ。装備はくまのぬいぐるみ。寝ぼけ眼とまどろんだ夢想。死ぬしかない。

 

だから踏みつけられたって文句を言うべきではない!と言いたい!

高級レストランと、自動車の運転シートと、朝の満員電車というのはサンダル履きで入ってはいけないのである!

 

そんな私はしっかりとリーガルの革靴を履き、その内部は五本指ソックスにて足蒸れを防いでいる。はなはだしいほどの自己防衛である。

まるでロックじゃない。

 

そう、これはロックじゃない。

自分を守ることに必死で、身体も名誉も傷つけず、順風満帆に生きていこうとしているこのアティチュードは、まるで社会性に富む大人の鑑ではないか。俺はこんな大人になりたかったわけじゃない!

 

かたやサンダル履きの彼女はどうだろうか。無防備がゆえの美麗。

それはまるで雑草のような弱者に宿る生命の眩耀。ルサンチマン。

たとえ弱くたって、踏んづけられたっていいんだもん。また立ち上がればいい。何度でも何度でも。そうやって生きてきた。自分を貫いて生きてきた。弱さはあたしの武器だ。どんな場所でも咲いてみせる。それが自分なのだから。

 

これはロックだ。俺は固唾をのんで彼女を仰ぎ見た。

彼女は危険を顧みず、自らの信念を貫いている。あたりを睥睨しながらも「自分は自分」と言いたげな意志がその目に粛々と宿っていた。彼女の小さな身体には「TPOなんて糞食らえ」という信条が、ちょっとした切り口をつけるだけで噴出してきそうなくらいパンパンに詰まっていたのだ。

 

俺は忸怩たる思いでいっぱいだった。

社会通念に毒され、マナーや常識という明確な答えの無い瘴気を吸い、それを「当たり前」という呪いにして辺りに撒き散らす。ロックは死んだ!俺の中で!

 

彼女は自分らしく咲いていた。

いっぽうの俺は自分を殺しサイテイだ。

そんなリリックを、ライムを、韻を、捻り出してしまうほど慙愧に耐えない。

 

そのとき、彼女に勝ちたい。

というか自分に負けたくない。

そんな情念が心の奥底、闇の中から光りになって射した。それは小さな小さな針穴のようなもので、見過ごしてしまいそうなほどの小さな光りだった。そんな光源を大きくするために「もう裸になるしかない」と思った。

 

でもまって。冷静に。ここは法治国家である。

もし私がこの卑小なプライドを守るために裸になれば須臾にして逮捕されてしまう。

それはそれでロッカーとして箔が付くのだが、俺には家族がいる。

大切なかけがえの無い家族だ。

 

音楽としてのロックももはや垣根が無くなり、さまざまな音楽形態をとっている。だから生き方のロックもそれぞれの形があってよいのではないだろうか。

俺のロック。それは「どんなことがあっても家族を守る」。これが俺のロックだ。そう思った瞬間に私の心は凪いだ。

 

こうしてサンダル履きの彼女は、時代に犯された俺のアパシーから目覚めさせてくれた。

そんな崇高な彼女を傷つけてしまわないようにと思い、私は満員電車のなか、全身全霊を込めて足の踏み場に気をつけたのだった。