まだロックが好き

まだロックが好き

夢破れたサラリーマンがおめおめと生きている日記

私たち人間は試されている

 

我々はテストされている。

知らぬ存ぜぬうちに試されている。

人に。大自然に。時代に。世界に。

我々は試されている。

それは言葉で光りを当てぬとも、闇のなかで蠢いている。

そんな日常の闇に潜むテストを、私は一握の勇気を持って、ここに記載する。

 

マヨネーズのテスト

人はなににマヨネーズを絞るのか、と試されている。

唐揚げ、ちくわ、ゆでたまごなどに絞るのは正解である。

しかしサラダにかけると「ドレッシングの立場は!?」と怒られる。

白米に絞る人間は危険人物だと思われる。パン食なら及第点。

なにに絞るのかなんて自由にさせてくれ!キューピー!

と思うが、下手なものに絞ると、脂肪と糖撲滅党の党員に「デブになるよ」と嘲笑されるので、ほんとうに世界は息が詰まる。

ちなみに私は重度のマヨネーズ中毒。マヨジャンキー。

お医者から青じそドレッシングを処方されている。

 

タンクトップのテスト

人はタンクトップが似合うのか試されている。

似合わないと牛丼屋でさえドレスコードに躓くという風説を聞く。 

さらには珍奇な生物として祭り上げられ、スマホで撮影され社会的情報網に露見させられるという。

好きなものを着ればよいという時代ではないようだ。

 

傘のテスト

人は傘を差した際、肩や腰下が濡れないか試されている。

 

もうちょっとがんばれ、傘業界。

と思う。

 

ステーキのテスト

人は獣肉の焼き加減を試される。

主に牛べこ肉である。

名家の出のそれはアルファベットと数字でランキングされている。

そんな牛の死骸を焼いて食うという専門店では「焼き加減は?」と問われる。

ものによっては生半可な焼き具合、ものによっては炭になるまで焼くのが美味いという。

そして間違った焼き方を頼むと鼻で笑われる。なんて人情味の欠ける世の中だ。

メニューに「おすすめの焼き加減」なんてかかれていることもあるらしい。

そんなら勝手に美味い焼き方で呉れ!

とも思う。

 

ラーメン次郎のテスト

人はラーメン次郎でトッピングを試される。

慳貪に「全マシマシで」とトッピングをすると世にもおぞましい姿で提供される。

勝手に美味いトッピングで呉れ!

料理として完成されたものを呉れ!

とも思う。

 

地方公共交通機関のテスト

人は交通機関の利用方法を試されている。

殊更にバスという旅客用大型ディーゼルエンジン車は曲者である。

地方によって運賃の前払い、後払い、乗車口、降車口などが難解である。

また同じ停留所にさまざまな行き先のバスがくるのでたいへん厄介。

そしてその全貌がわからず、まごまごしていると、その筋の手練から

「なにしてんだよ。そんなこともわからんのか。いなかもんめ」

と罵られ、打擲され、ときたま路地裏に引かれ金品をせしめられる、という。

私は二度とバスに乗らないことにした。

 

フィリピンパブのテスト

人はなぜフィリピンパブに行き、なぜこうも日本にはフィリピンパブが横溢しているのか。つまりこれはフィリピンパブには不可思議な魅力があるこということで、それを人は試されている。

これは小論文方式である。

フィリピンパブの魅力を原稿用紙5枚以上書かなければならない。

たぶん私は白紙で出すと思う。答えは沈黙。

 

深田恭子のテスト

深田恭子をどれだけ愛しているのかを試されている。

身長体重、生年月日、動物占い、使用しているシャンプーリンスはもちろん、昨晩のホットヨガでどれだけ汗を流したか、寝言はなんと発言したか、などを知っていないと深田恭子がほんとうに好きとは言えない。

しかしさいきん私は川島海荷が愛おしくてたまらない。ジップがかわいすぎる。

俺は今、深田恭子への愛をテストされている。

 

箸の持ち方のテスト

人は箸の持ち方をテストされている。

箸の持ち方が正しくないと、正規の箸プレイヤーに叱咤される。

そんな私は正規の箸プレイヤーでチョップスティックポリス。

悪い箸の持ち方を注意することは稀であるが、発見するたび眉を顰めている。

「てめぇには関係ないだろう!」とおっしゃる御仁もおられると思う。

その都度、私は以下のようなことを言う。

「いいかい。もし私が死んだ母の納骨をつねに脇にして、またその骨を削りアクセサリーかなんかにして装備して、さらに着ているティーシャツに母の遺影を転写して着ていたらどうおもう?なんだか悲しい気持ち、ちょっとした不快感を覚えないかい?そういった個人の問題だけでない了見があるのだよ。お箸の持ち方というのは」と言うことにしている。

だいたい笑ってごまかされます。

 

知恵のテスト

人はどれだけ賢いのかを試されている。

おもに義務教育などと嘯いては文部科学省が用意したカリキュラムに沿った教育という洗脳を施され、まったくもって生きる力とは関係のない、そして家庭環境などにも左右されるその学問回答力を個人の叡智と判断しては、人間のレベルとし、そのレベル別に人の道を、あたえる労働の価値を二色の襟色にし、賃金の格差をもって生活の質をも分断化し、健康で文化的な最高の人生を歩みつつちいさなことで「鬱だわー。ほんと幼少期の体験が諸悪の根源」なんて不確定な過去に現在の己の意気地の無さの責任を押し付けつつ空調の効いた部屋でインターネットをしている人間と、抜けられない泥沼のような生活、いわばそれは与えられた天命のようなものの渦中、これ以上落ちぬようにと這いつくばっては1ミクロンでも上へと目指し、小さな幸せをかみ締めて日々の糧にし、幸せの形を工夫し、口に糊して露命をつなぐ懸命な人々が二分化されるような時代をつくりあげる知恵のテストで賢さを図る。

私はテストはできた。しかしテストが出来ずとも「ポテチが食いたいから自分で揚げた」と言って自作のポテチを作った貧乏な一家のあの子には、どうあがいても根本的な発想と、その生きる力で、人類として敵わないと思った小学生時代。

人を判断するならば、もっとこう原始的な生きる力をテストするべきではないだろうか。

「生きる力」の強い子を育てる (人間性教育学シリーズ)

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今週のお題「テスト」