まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

台所のシンクを「流し」という生活

 

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 台所のシンクを「流し」と云うのがいっぱんてきだとおもう。このとき「ながし」の発音は「カカシ」であって、これが「たかし」の発音だと酒場にギターを抱えてやってくる、みたいな人になりますね。

 

 でも、よく考えるとこれってすごくない? 動詞が連用形でとまって名詞になっちゃったんだよ? 「ブログ」みたいに名詞が動詞的になる変化はあまたあれども、そういうヤツほかにある? すごくない? と、私は昨晩、痛飲のあげくわめきちらした。もう年も暮れはじめている。

 

 そんなことを考えてその晩をすごした。つまり「洗い」で濡らした頭髪を「乾かし」をつかって風をあてた。「腰かけ」に座り、「載せ」にもった根菜を「つかみ」で口にはこんだ。「もたれ」に寄りかかって「淹れ」のなかのカフェインレスのティーをのんだ。

 

 音楽をすこし聴いた。「音だし」から流れてくるのは古いアメリカの音楽だった。ブリルビルディングの音楽が好きでたまに聴く。こころが浮く。こういうめっちゃ明るい音楽は「浮き」だな、とおもった。

 

 妻と議論した。妻も「娶り」として形容できるが、これはなんだかちょっとおこられそうだぞ、と思ったのでこのまま妻でいこう。以降。妻の「しゃべり」から漏れてくることばを「聞こえ」に入れた。

 

 「祝い」をどうするか、という問題であった。ケーキを「予め」しなければいけない。毎年デパートの「売り」に足を運んでいたが、それはめんどうだ、という「判じ」をした。先日、ローソンというよろず屋の「試し食い」でケーキを「あじわい」に転がしたのだが、これがうまかった。よろず屋のケーキにしよう、と「決まり」をした。

 

 なんだか連用形止めの生活もけっこういけんじゃん。名詞いらなくね? なんておもった夜半。「臥し」にはいろうとした。そこで、はた、と停止してしまった。そう、扉の問題である。この連用形止めの生活のなかで扉は「開け」なのか「閉め」なのか、という問題にぶち当たったのである。

 

 だいたい冬季たる今。「あたため」をしようしている都合上、扉を閉めていることが多い。ゆえに、私が扉にふれたとき。これは「開け」るものだ。しかし、常態というのは「閉め」てあるものである。つまり、どちらでもあり、どちらでもない、という二律背反がこの扉なのである。

 

 これはもう神の問題だな、とおもった。こんなもんだいを人類が容易に決めて好いものか! となかば怒りに満ちていた。そしたら妻が「開け閉め」で好いのでは? とか云い出した。なんて節度に欠ける女性(にょしょう)なんだ! とおもった。

 

 扉を「開け閉め」としてしまえば、上記の連用止めは悉皆言い直さなければならない。つまり「流し」は流さない場合もあるので「流し流さず」みたいなことになるだろうし、「腰かけ」は「腰かけ腰かけず」にもなるし、さらに云えば腰のかかっていない「腰かけ」はその動作にもとづかないので「佇み」になるし、そうなると常態の有無を表さねばならぬ「開け閉め」理論でいけば「佇み佇まず」みたいになって、もうなにがなんだかわからなくなるだろう。阿呆か。なにがアウフヘーベンじゃぼけなす。

 

 そんな怒りのパワー渦巻く胎の底があったが、ひどく鯨飲した私は「出し」に行きたかったのであせっていた。しかし扉を開くには扉の「開け」なのか「閉め」なのか問題を解決しなければ、ちゃんとした大人になれない気がしてマジで気をもんだ。どうしてこうなっちゃったのか。

 

 幾刻経っただらうか。私はあきらめた。反省した。慟哭した。もう二度と安易に「流し」なんて云いません。名詞なんてなくてもいけんじゃね? とか思いません。だからこの扉を扉と呼ばせてください。おしっこがしたいです。だから扉を開けさせてください。できるだけ善行を積みます。あまりお酒ものみません。募金もします。サービス残業も厭わないです。おねがいします。おねがいします。おねがいします。

 

 すると、夜空がぐるぐると婉曲し雲が割れた。その中心から一脈の光が差し込み、ひとつの翳が飛び出した。それは初老の男で、純白のでかい布を肩からかけて身に纏い、腰のあたりを麻縄で結んだような様相をしていて、湖池屋のスコーンみたいな形状の木杖を持っていた。灰色の蓬髪に同色の髭を鬢からはやしていた。精悍な顔立ちだった。

 

 彼は諸手を振り上げると神通力のようなものでふれることなく扉を開けた。そうしてするどく発光し、消滅した。なんだったんだ、あれは。と思いながら私は開いた扉をくぐり、みごとに「用足し」をした。あれ? 扉って「くぐり」でよかったんじゃね? と思った。