まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

薄毛という社会的なタブーが存在するわりに剛毛にたいしてはずいぶん辛辣な世の中だとおもう

 

 先日。時間によゆうがあったので理髪店によってかえった。その風采を妻に眇められ、「耳に毛がのこっているよ」と云われた。「除去してくれ」と懇願すると、その毛をつまんだ妻から笑いごえが弾けた。毛の残りではなく、耳毛が生えていたのである。

 

 ときおり老翁にみることができる。鬱葱たる黒い森(もしくは白やグレー)が耳孔に密生している。音、聞こえねぇんじゃねえか、とおもう。そんな耳毛のはじまりが、私に芽生えていた。

 

 恥辱にまみれたきぶんだった。妻が嬉々としてそれを脱毛せしめようとしているのだが、あきらかに嘲弄の念をふくんでいる。あたかも私がジジイであるかのように「おじいちゃんみたいだね!」と云ってくる。精神的瑕疵である。これは何ハラなのだろうか。

 

 私は体毛が濃い。すさまじい量の男性ホルモンをこの身代に含有しており、腕にも脛にも胸にもたくさんの毛が生えている。べつだんそれに恥じ入ったことはないのだが、さすがに耳毛はちょっと自分でもどうかとおもう。

 

   薄毛は病気らしい。AGAとか外来語でかっこつけられちゃって薬缶頭を胡麻化している。そうして禿頭に懊悩をいだく人類は、その身体的特徴を慈しまれ、「それは医院に行ってそうだんしよう」と社会的な愛をうける。

 

  ちょっとまってほしい。薄毛でなやむひとがいるのならば、剛毛になやむひとだっているんじゃないだろうか。先にも述べたように私自身、この身体に忸怩たるおもいをいだいてはいないのだが、きっとこの地球上のどこかには多毛に憂悶しているひとがいるはずだ。

 

   毛深はいぢられやすい。私は中学まで自分がふつうだとおもっていた。だが朋輩の加藤くんに「おまえめちゃめちゃ毛が濃いな」と云われ、はじめて自分のアイデンティティを意識した。私は気丈なたちなので明るく振る舞ったが、それ以降、「もっちーの毛いじり」は学閥内で通例化した。

 

  いまでもたまに「毛が濃いね」と云われる。だが、そう云うひとたちはハゲに「おまえハゲてるな」と云うのだろうか。云わないだろう。なぜならハゲは社会的にふれてはいけないタブーだからだ。おなじ毛なのになんだこの差別は。人権とはなんだ。

 

   こう書くと、「じゃあ剃毛すればよかろう」とおっしゃる方がおられる。ばかをいうな。毎日の剃毛とそれにかかる時間×費用をけいさんしてくれろ。剃刀はすぐににぶり、代用品の購入はあっという間だし、風呂のじかんもながくなるためガス代金が爆発的に増加する。しかも剃ったって髭などの「濃い」感は悉皆消滅することはない。おれたちは無駄なたたかいを毎日繰り返しているんだよ。

 

   もっと世の中は毛深にたいしてやさしくしてほしい。それがおなじ毛の悩みをかかえるAGAとフラットな関係を築きあげるとおもう。ってゆうかこの毛を分けてあげたい。かわりにその薄毛をすこしわけてほしい。

 

   だけど薄毛のげんいんは男性ホルモンらしい。そういう風聞がわたしの耳毛をゆらした。ってことは激烈な男性ホルモンをもつ私はいつかハゲるのか。なんなんだ、毛深のつぎは薄毛になやむのか。やめてくれ男性ホルモン。おい、だれかたすけてくれ。